戦争

作家・半藤一利さんインタビュー(下) 冷徹に時代見る目必要有料鍵

明治維新150年
幕末以降の日本の歩みをたどり、歴史を捉え直す作家半藤一利さん(87)へのインタビュー。話題は明治後期から現代まで及んだ。 -「西南の役」で新政府が勝利し、国家づくりは新たな段階に進む。

佐賀新聞連載「刻む 佐賀・戦時下の記憶」出版

佐賀新聞社は、戦争体験者への聞き書き『刻む 佐賀・戦時下の記憶』を出版、8日から佐賀県内の主要書店で発売する。 戦後70年企画として、2014年10月から1年半にわたって佐賀新聞に掲載した大型連載を書籍化。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ 特別編 70人の証言を読み解く 鬼嶋淳、吉岡剛彦・佐賀大准教授に聞く 印象に残った証言有料鍵

戦後70年の節目をまたぐ形で1年半にわたり、戦争体験者の記憶をつづってきた企画「刻む~佐賀・戦時下の記憶」。これまで集めてきた70人の証言をどう読み解き、後世の教訓としていくのか。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~特別編 70人の証言を読み解く有料鍵

鬼嶋淳、吉岡剛彦・佐賀大准教授に聞く
戦後70年の節目をまたぐ形で1年半にわたり、戦争体験者の記憶をつづってきた企画「刻む~佐賀・戦時下の記憶」。これまで集めてきた70人の証言をどう読み解き、後世の教訓としていくのか。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ File70 安永トミエさん(90)北九州市(鳥栖市出身) 戦傷病者の看護<1940(昭和15)年~46(同21)年>有料鍵

■過酷体験心を病んだ兵士 男たちが戦争に取られていくと、子どもたちは貴重な労働力となった。「姉は土木工事に駆り出され、小学生の私も出征兵士の家の農作業を手伝った。みんな戦争に勝つことだけを考えて暮らしていた」。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ File69 吉松経治さん(90)三養基郡基山町 狙われた鳥栖機関区<1945(昭和20)年6~8月>有料鍵

■グラマン急襲に死を覚悟 梅雨の晴れ間を切り裂き、背後から迫ってくる戦闘機に死を覚悟した。 1945(昭和20)年6月。制空権を掌握した米軍の攻撃は九州各地にも広がっていた。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ File68 北村久子さん(82)大阪府枚方市 引き揚げ船沈没<1945(昭和20)年9月>有料鍵

■釜山から航行中機雷爆発 終戦直後の1945(昭和20)年9月。朝鮮半島南端の釜山から引き揚げ者を乗せ、日本を目指していた小型船に「機雷だ」と叫び声が響いた。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ File67 田中賢二さん(92)小城市芦刈町 学徒出陣<1943(昭和18)年10月>有料鍵

■勉学の道半ば心残り 1943(昭和18)年10月21日。朝から雨だった。東京・明治神宮外苑競技場では、文部省(当時)主催で「出陣学徒壮行会」が初めて開かれた。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ File66 田邉善三さん(88)唐津市町田 米軍機の通信傍受<1945(昭和20)年5~8月>有料鍵

■終戦3日前「降伏」知る 東京・北多摩の女学校近くに造られた防空壕(ごう)。1945(昭和20)年5月、当時18歳だった田邉(たなべ)善三さん(88)=唐津市町田=は米軍機の通信を傍受する任務に就いた。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ File65 武藤重雄さん(98)佐賀市諸富町 近衛兵から激戦地へ<1937(昭和12)年12月~46年6月>有料鍵

■皇居警護からビルマ戦線 1937(昭和12)年12月、当時20歳だった佐賀市諸富町の武藤重雄さん(98)は陸軍近衛歩兵第4連隊に配属された。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ File64 瀬部嘉次男さん(89)吉野ケ里町 731部隊<1945(昭和20)年6~8月>有料鍵

■秘密は墓場まで ハルビンに向かう列車の中で、目つきの鋭い支那服の男が、じっとこちらを見ている。薄気味悪いと思っていたら、私たちを監視する憲兵だった。 1945(昭和20)年6月。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ File63 原正喜さん(88)唐津市相知町 信号兵<1944(昭和19)年5月~45(昭和20)年7月>有料鍵

■海防艦に米軍機襲来 1945(昭和20)年7月、当時17歳だった唐津市相知町の原正喜さん(88)は佐世保海兵団に所属、鵜来型海防艦「伊王」の信号兵として、東北、北海道方面の商船護衛などに当たっていた。 「敵機襲来…

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ File62 井上幸子さん(89)唐津市双水 父から息子への手紙<1939(昭和14)年1月~43(昭和18)年4月>有料鍵

■戦地のわが子気遣う36通 <健在を祈る><しっかりやってくれ><必要であれば何でも送るから>-。セピア色に変色し、所々破れた36通の手紙。末尾には必ず、戦地の息子に対するいたわりの言葉が添えられている。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ File61 中村正次郎さん(87)杵島郡白石町 海軍通信兵<1945(昭和20)年3月~8月>有料鍵

■ひたすら電信受ける日々 山中の長い壕(ごう)に入ると、真昼のような明るさだった。「これほど設備が充実していて、負けるはずがない」。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ File60 森崎薫さん(87)鹿島市納富分 被爆地で援護活動<1945(昭和20)年8月>有料鍵

■長崎に動員中、原爆爆発 1943(昭和18)年4月。鹿島立教実業学校(現鹿島実業高)商業科3、4年の男子生徒約80人は長崎湾口に浮かぶ香焼島(現長崎市香焼町)の造船所に勤労動員された。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ File59 手塚ヨウ子さん(75)佐賀市本庄町 父が戦死して<1944(昭和19)年9月~>有料鍵

■母子4人、苦難の連続 一家の大黒柱を失った母子4人は、6畳1間ぐらいの小さな家に身を寄せた。 1948(昭和23)年。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ File58 小林文子さん(80)杵島郡江北町 サイパンで終戦<1944(昭和19)年6月~46(昭和21)年1月>有料鍵

■逃げ惑い、米軍捕虜に 杵島郡江北町の小林文子さん(80)が初めて日本の地を踏んだのは終戦後の1946(昭和21)年1月21日。小林さんは日本が委託統治していたサイパン島で生まれ育った。

心と向き合う(1) 肥前療養所へ復員兵次々有料鍵

さが70年の来歴 特別編
■戦争で心病み故郷帰れず 昨秋、一人の男性がひっそりと息を引き取った。 86歳。太平洋戦争で戦地に赴き、復員から数年後、精神に変調をきたした。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~ File57 宮原實さん(90)佐賀市鍋島町 中国での「留用」<1945(昭和20)年12月~53(昭和28)年8月>有料鍵

■強いられた炭鉱労働 終戦から丸8年がたった1953(昭和28)年8月15日付の佐賀新聞。引き揚げ船「興安丸」の帰国者たちが佐賀駅に到着したとの記事に、当時27歳の宮原實さん(90)=佐賀市鍋島町=の名前がある。

刻む~佐賀・戦時下の記憶~特別編 「戦争指導者たちの責任」とは有料鍵

鬼嶋淳准教授(佐賀大文化教育学部)が読み解く■開戦は主体的選択 終結機会逃し被害拡大 1941(昭和16)年12月8日、日本は対米英戦争開戦に踏み切った。
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