柔道
この公共広告は、2024年に佐賀県で開かれる国民スポーツ大会(佐賀大会より「国民体育大会」から名称変更)と全国障害者スポーツ大会を応援するキャンペーンです。昨年に引き続き「挑む」をテーマに、かつて全国、世界レベルで結果を出し、現在では県内でトップアスリートの発掘、育成にあたる指導者にスポットライトをあてます。今回は、アトランタ五輪の柔道60㌔級の代表候補にも選ばれ、現在は佐賀工業高校で柔道を指導する教師の原田堅一さん(50)を取り上げます。
元五輪候補が教える、幸せつかむ「柔」の道
原田 堅一さん(50)

代表合宿で「柔道」の世界観変わる

二十数年前の社会人時代、子ども向けの柔道教室の講師として佐賀に赴いたときです。当時、五輪金メダリストの野村忠宏選手ら4人で争ったアトランタ五輪の代表の座を射止められず、これからどうしようかと考えていたころでした。教室には、私が卒業した鹿屋体育大学の副学長が来ていて「佐賀で教員になって柔道を教えないか」と誘われました。指導者としての自分の姿を思い描けませんでしたが、「子どもたちに目的を持たせてしっかりとした人生を歩ませることは、教員にしかできないのでは」と考えました。
私は高校入学時、体重は50㌔で、中学時代に何の実績も残せず白帯のまま、柔道の強豪・大牟田高校に入りました。周囲に「世界を目指す」と公言し、その目標に向かって厳しい練習に励み、高校3年のとき、体重別個人戦でインターハイではベスト8に進みました。
複数の名門大学から声を掛けられましたが、鹿屋体育大学を選んだのは、尊敬する指導者がいたことと、創立6年目と歴史が浅いことも新鮮に映りました。講義の合間、水深2㍍もあるプールでひたすら泳ぎ、筋トレに励み、重量級選手を相手に稽古を積みました。
大学1年時に体重別学生チャンピオンになり、代表合宿に呼ばれるようになりました。この合宿で、柔道の取り組み方を根本的に見直すことになりました。それまでは、あまり組まずに競り勝つスタイルだったのですが、「このやり方では世界に通用しない」と分かりました。しっかりと組んで技を掛ける柔道の醍醐味を生かした攻め方でないと、高いレベルには到達できません。このときの経験は、現在、高校生に指導する際も生きています。

指導にあたって念頭に置くのは、「人生で幸せになるために、最適な道とは何か」を生徒たちに考えてもらうことです。部員には、清掃活動の参加を促し、生徒会の役員になるよう進言しています。練習メニューも部員に決めさせます。長い人生を歩む上で、柔道以外の経験も必要で、岐路に立ったとき自らの意思で決めなければいけないときがあるからです。
教員という幸せな人生を歩めたのは、柔道を極めようとした自分の選択の結果だと信じています。県からトップコーチに認定され、3年後の国スポでは、県民の期待に応えるべく、技術と同時に選手の心の強さも鍛えられたらと思っています。そして、「柔道を通して生徒を生涯、幸せにしたい」と思う教員であり続けたいですね。
体重別の全日本選手権で制覇

輝け!国スポ全障スポ 柔道編
負けても内面の強さを実感

佐賀工業高校柔道部主将 寺尾光翔さん
中学時代から、原田先生の指導を時折受けていました。そのときも「柔道はただ強ければいい」という指導法ではなく、「これからの人生において幸せをつかむためにはどうしたらいいのか」と強調されたのが印象的でした。
原田先生が、元五輪代表候補の選手で、全日本体重別選手権の覇者でもあり、数々の国際大会で好成績を収められたという話は、高校入学前から知っていました。練習はもちろん厳しいのですが、原田先生は部活動以外の学校行事への参加を勧めたり、練習内容も部員で決めたりと、自主性を重んじる考えを部員一人一人に問いかけていました。
小学1年生から柔道を続けていて、一貫して指導者の言う通りの練習とアドバイスで、強くなってきた経緯もあり、高校1年生のころは、先生の目指す柔道について驚きの連続で受け止めました。
2年ぶりに開催されたインターハイでは個人戦、団体戦ともに全国への出場はかないませんでした。このとき、負けた悔しさは確かにありましたが、次に自分が進むべき道は何なのかを考えています。3年間にわたる原田先生の指導により、技への磨きが深くなった以上に、ここにきて心の内面の強さを実感しました。