材木町の喫茶油屋

 材木町は城下町の東部、北は松浦川に面しています。築城時、唐津藩主・寺沢志摩守(しまのかみ)広高は町地に水堀を掘らせ船着場とし、材木町の商人の手を経ずに材木・竹・薪(まき)・木炭などの取引はできないとする特権を与えました。

 喫茶油屋は材木町の最後の町年寄17代炭屋・平松儀右衛門(1820~1902年)の敷地に建っています。1865(元治2)年、儀右衛門が藩医の保利文溟(ぶんめい)ら茶や俳句の仲間と唐津から長崎へ旅した際の紀行文が『平松儀右衛門道中日記』。長崎では文溟の弟子で当時長崎にいた石崎道太郎の案内でグラバーが走らせた蒸気機関車を見物する様子が描かれています。

 儀右衛門の嗣子・定兵衛の自叙伝によると、平松家は本業の質店のほか、母が紺屋と糀(こうじ)屋を切り盛りしていました。定兵衛は13歳で染物に使う灰の買い付けを任されます。1枡2文で買い集めると母が2文半で買い上げて商売を教えました。母の死後17歳だった定兵衛は紺屋、糀屋の経営を任されます。明治初期からは廻漕業、唐津銀行の創設、鉄道の敷設と唐津の近代化に尽力しました。

 喫茶油屋は1921(大正10)年築で建主は定兵衛。整然と並ぶ2階の開口部と外壁の陰影が美しい重厚感のある建物です。定兵衛の養嗣子・茂三郎は山本で酒屋を営み、建物は昭和10年代は豊増医院が、その後は本町の油屋を営んでいた伊東利治が借りました。当時、市内に豆腐屋が25軒、蒲鉾(かまぼこ)屋が20軒、ホテルにも一斗缶で卸していました。平成に入るとともに喫茶油屋を開店。傍らのレトロな赤いポストが今も建物を見守っています。

文・菊池典子

絵・菊池郁夫

(NPOからつヘリテージ機構)