現在は取排水関係の施設が建ち並ぶ鳥栖市真木町赤江・浜地区

 江戸時代、鳥栖市域の東半分は対馬藩の領地でした。したがって年貢米は海に浮かぶ対馬島まで運ばなければなりません。

 江戸時代初期は博多まで陸路で運び、船に積み対馬まで運んでいました。ところが、博多までの陸送は馬で2~4俵ずつしか運べず、農民にとっては大変な負担でした。

 そこで慶安4(1651)年には水路で運ぶことになり、中世からの川港である赤江(現真木町)から20俵ほど積める舟で運び出すことにしました。年貢米を運び出す秋以降は、赤江港は官民の舟で大変なにぎわいだったろうと想像されます。

 ルートは筑後川を下り、榎津(現佐賀市)で大きな船に積み替え、有明海を回り込み、松浦・壱岐を経由して対馬まで運んでいました。

 しかし、赤江港の混雑を避けるためか、延宝5(1677)年、米の積み出しは大木川の川口の水屋浜に移動しています。(「鳥栖市誌第3巻」など参考)(鳥栖郷土研究会会長・藤瀬禎博)