砕かれた陶片の一つ一つが、人間の愚かさと、それと真逆の崇高さを同時に体現している-。西松浦郡有田町で開かれている特別展「海を渡った古伊万里~ウィーン、ロースドルフ城の悲劇」は、粉々の陶片ばかりを集めた異色の展覧会だ。

 なぜ、美しい古伊万里は砕かれなければならなかったのか。

 第2次世界大戦の末期、ロースドルフ城はソ連軍に接収された。城主のピアッティ家は主なコレクションを地下に隠したが、それを見つけ出したソ連兵たちは、たたき割ってから城を去っていた。

 いやが応でも、ロシアによるウクライナ侵攻を想起させられる。日々届く映像は戦争のむごさを伝えてくるが、人間の英知が結集された文化財や美術品もまた、どれほど破壊されたことか。佐賀市出身のアーティスト、ミヤザキケンスケさんが平和と共生を願って地元の人々と描いたマリウポリの学校壁画は、どうなっただろう。

 大戦後、ピアッティ家の人々は、がれきと化したコレクションを捨てることなく、1カ所にまとめて「陶片の間」と名付けた。そこはソ連軍が執務室として使った部屋で、今でも壁にはロシア語が残されたままだ。

 ピアッティ家の手により、がれきには「戦争遺産」という新たな命が与えられた。その陶片の一部が今回、日本へ里帰りできたのには、裏千家の茶道家保科眞智子さんの存在が大きい。たまたま陶片の間の存在を知り、研究者や修復家らを巻き込んで「古伊万里再生プロジェクト」を立ちあげた。

 有田を訪れた保科さんは、展覧会を監修した学習院大・荒川正明教授の「焼き物はしぶといんだ」という言葉を引きながら、「この陶片の一つ一つが宝石のように見えてくる」と感慨深げだった。

 このコレクションは、洋の東西を行き交った焼き物の交流史そのものだ。例えば、オーストリア・ウィーン窯が、古伊万里を模倣した「色絵菊花散らし文皿」(19世紀)の破片。古伊万里がどれほどヨーロッパを魅了したかの証しだ。会場では破片の隣に、まったく同じ皿が完全な形で飾られている。こちらは、有田町の今右衛門古陶磁美術館の収蔵で、有田で大切に守られ続けてきた。

 人間国宝の十四代今泉今右衛門さんは「この展覧会は陶片を守り続けた城主をはじめ、今回修復して再生させた人たちまで、いろんな人々の思いがウィーンから有田まで焼き物でつながっている。人の思いの大切さにふれてほしい」と有田開催の意義を語っていた。

 コロナ禍でも3万人近くを動員した巡回展だが当初、有田は会場に含まれていなかった。展示品のウィーン帰国がコロナ禍で予定より遅れて、九州陶磁文化館が急きょ誘致にこぎつけた経緯がある。

 しかも、これまでの巡回展ではやはりコロナ禍で見送られてきたピアッティ家当主の来日も、有田で初めて実現することになった。

 有田を最後に日本の巡回展は幕を閉じるが、これは新たな始まりでもある。日本での評判が届いて、現地開催の企画が動き始めたからだ。ウクライナの戦禍を目の当たりにしているヨーロッパの人々が、このよみがえった戦争遺産から人間の崇高さを再認識されるならば、古伊万里発祥の地として、これほど誇らしいことはない。(古賀史生)