佐賀県鹿島市の鹿島小にある「平和継承之礎」と樋口敏夫さん

 広島大の学生が、広島と長崎に投下された原爆の犠牲者の追悼碑や核廃絶を願う碑の分布を調べたところ、佐賀など36都道府県で554基を確認した。広島、長崎両県以外には158基あった。学生は「被爆者が後世に託した思いが全国に広がっている」と語る。慰霊祭や集会に活用され、思いが継承されている碑がある一方、年月の経過で放置されているものもあった。

 広島大大学院の熊原康博准教授(自然地理学)が昨年4月、当時の大学1年生21人に調査を提案。うち4人が調査を続けて分布地図を作成した。結果は今年5月21日の地理科学学会で発表。広島、長崎を除き、最も多いのは東京都30基、次いで岡山県13基、千葉県と神奈川県が11基だった。関連するブロンズ像や火、ベンチも含めた。

 広島大2年の山本健人さん(19)は「全国に被爆者はいる。犠牲になった方々を慰霊する碑の存在を認識してもらうことで、核の脅威を身近に感じてほしい」と話す。学生たちは教員を目指しており、調査結果を平和学習の教材として活用していきたいと考えている。

 2年の一柳真帆さん(19)は「原爆で犠牲になった人を弔う碑もあれば、核兵器廃絶のために尽力した人をたたえる碑もある」と分析。故郷の松山市には「愛媛県原爆被害者の会」が1974年に建立した「原爆死没者慰霊碑」があり、毎年慰霊祭が行われている。

 既に使われなくなった碑もあった。北海道猿払村の浅茅野(あさじの)小の校門前にある「願いの碑」。学校に残る資料などによると、83年に当時の教師が広島から被爆した瓦を取り寄せ、碑に埋め込んで建てた。2003年ごろまでは平和学習に活用していたという。学校は「当時を知る人はおらず、学生らの問い合わせを受けて経緯を知った」とする。

 広島原爆資料館の元館長で、学生の調査に協力した被爆者の原田浩さん(82)は、被爆者が高齢化する中で、全国の碑がそれぞれの地で活用されることを願う。「碑は被爆者がいなくなった後も原爆の恐ろしさを訴え続け、継承する方法の一つとなる」と話す。

■鹿島市の鹿島小「平和継承之礎」

長崎原爆の救護所、訪問今なお

 長崎県に近い佐賀県鹿島市の市立鹿島小には、「平和継承之礎(いしずえ)」と刻まれた石碑がある。小学校は1945年8月9日の長崎原爆の救護所だった。「鹿島市原爆被爆者の会」が建て、毎年8月9日に集会を開いていた。高齢化が進み、会は昨年3月末に解散したが、今も被爆者が訪れている。

 被爆者の会副会長を務めた樋口敏夫さん(81)によると、かつて会員は、原爆の日は長崎市へ追悼に訪れていた。高齢化に伴い困難になり、当時の会長が「近くなら訪れやすい」と地元での石碑建立を提案。原爆投下直後、被爆した人々が講堂に運ばれ手当てを受けた鹿島小を選んだ。

 会員で費用を出し合い、総工費約90万円で2011年に完成。会は解散しても、樋口さんは「生きている限り、毎年行くつもりだ」と話す。

■福島県楢葉町「非核の火」

原発事故の地、資料館も併設

 福島県楢葉町の宝鏡寺には、広島と長崎に由来する「非核の火」がともる。この地は東京電力福島第1原発事故で一時、全町避難を余儀なくされた。4年超の避難生活を送った住職の早川篤雄さん(82)は「原発事故も原爆投下も、世界のどこでも繰り返してはいけないということを、火を通じて感じてほしい」と語る。

 非核の火は、福岡県八女市の男性が原爆投下後の広島から持ち帰り保存していた残り火と、長崎の被爆瓦をこすり合わせて採った火を合わせたもの。核廃絶を願い東京の上野東照宮で30年以上ともされていたが、撤去されることになり、早川さんが昨年引き取った。火はガラスケースに収められ、地元住民らでつくる「『非核の火』を灯す会」が管理している。境内には両被爆地や原発事故などの資料館も併設。県内外から見学客が訪れている。

■静岡県焼津市「誓いの碑」

ビキニ事件60年で建立

 米国が太平洋マーシャル諸島で水爆実験をし、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が被ばくしたビキニ事件から60年の節目となった2014年、市は焼津文化会館に「誓いの碑」を建立した。会館では毎年、市主催の集会が開かれている。

 市総務課の望月孝裕さん(47)によると、水爆実験の風評被害に悩む漁業関係者に配慮し、漁港付近には建てられなかった。「核兵器全般の廃絶を誓うための碑」という位置付けとすることで「事故を思い出したくない」という遺族の理解を得た。

 集会では、小学生らが平和をテーマに書いた作文を読み上げる。望月さんは「ロシアによるウクライナ侵攻が続く中、碑が平和を構築するきっかけになれば」と願う。【共同】