自ら企画した「エイサー祭り」でマイクを持つ藤元秀幸さん=2014年8月、唐津市(提供写真)

長きにわたる沖縄との関わりを語る藤元秀幸さん=唐津市神田の自宅

 15日で本土復帰50年を迎えた沖縄。唐津市神田の藤元秀幸さん(76)は10代で返還運動に関わり、復帰直後から3年間は沖縄で建設業に携わった。「基地のない本土並みの返還がかなわず、日本政府への恨みは根強かった」。当時の沖縄の人たちの本土への厳しい見方とともに無念さを感じた。その後は唐津で開かれる少年野球を契機に石垣島との交流を続け、「沖縄は第二のふるさと」と心を寄せる。

 最初の接点は約60年前。唐津工高に在学中、友人に誘われるまま沖縄返還運動に参加した。鹿児島港から漁船に乗り込み、奄美大島と徳之島でデモ行進し、当時“国境”だった与論島と沖縄本島の間まで行き、海上集会で「沖縄を返せ」と声を上げた。母が奄美大島の出身で「南の血が自分に入っているという感覚が漠然とあったから行ったのかな。でも運動に参加したのはそれきり」と言う。

 ■「ビールは出さん」

 本土に復帰した1972年。勤めていた北九州の建設会社から沖縄勤務の辞令を受ける。那覇港に下り立った時の感動は今も鮮明で「このために海上で声を上げたんだ」。当時27歳。約3年滞在し、ホテルや沖縄国際海洋博覧会(75年)会場の建設工事で、下請け会社の現場責任者を務めた。

 仕事を終えて一杯飲んで帰ろうと居酒屋に入ると「お前、内地の人間だろう。ビールは出さん」と何度も断られた。タクシーも乗せてもらえなかった。どこに行っても「内地の人は信用ならん」と言われた。太平洋戦争末期、本土防衛の「捨て石」とされ、県民の4人に1人が犠牲になった沖縄。軍隊のない島に戻るとの期待は裏切られ、米軍は残り、自衛隊も入ってきた。「本土並みの復帰が果たせず、政府への恨みつらみの矛先がこちらに向かってきたと感じた」

 現在まで続く石垣島との交流は、唐津に戻り、少年野球がきっかけだった。89(平成元)年の第2回虹の松原カップに石垣島のチームが参加すると知った。「飛行機を乗り継いで来る。応援する人はいないだろう」。応援団を買って出ると初出場で初優勝。それから交流が始まった。遠征費を抑えるため、経営していた建設業の会社事務所を合宿所として提供するなど20年以上、世話を焼いた。

 ■中国脅威論に温度差

 その後も沖縄文化を唐津の人に知ってほしいと「エイサー祭り」や首里城復興のチャリティーイベントを開いてきた。石垣島の観光フェリーを唐津市の造船所が長年造っているなどの縁もあり、昨年12月の12回目の訪問時に唐津石垣交流会を設立した。今秋には唐津くんちに旅行団が来る約束があるという。「細いパイプかもしれないけど」と交流を重ねる。

 基地負担の軽減を求める声はやまず「今の沖縄の姿も、沖縄の人たちが望んだものではないと思う」と藤元さん。一方、尖閣諸島(石垣市)付近での中国公船の領海侵入が繰り返され、中国に近い石垣島では中国脅威論があると実感している。交流している島の人々を思い浮かべ「あの豊かな島の中で安心して暮らせるようになってくれたら」と願う。(宮﨑勝)