伊勢神宮から下賜された二つの御神宝。右が「革御靭(かわのおんゆき)」、左が「御盾(おんたて)」

 なぜ、伊勢神社は「佐賀の」、ではなく“九州のお伊勢さん”と呼ばれるのか-。2001年まで伊勢神宮(三重県)で神主を務めていた八幡崇経(やはたたかつね)・呼子八幡神社宮司が、その謎を解く論文を皇学館大との共同研究などで発表している。

 ◆旅する神官

 八幡崇経宮司は「伊勢信仰を広める役割を担っていた『御師(おんし)』の存在が大きい」と指摘する。御師とは、各地を訪れて祈禱(きとう)を行い、お神札(ふだ)を配り、伊勢信仰を広めていた神官を指す。佐賀を含む肥前エリアは、代々「橋村肥前大夫(だゆう)」と呼ばれた御師、橋村家の縄張りに当たる。近年の伊勢神社の参拝者を見ても、県内は佐賀市だけでなく、伊万里市や武雄市、唐津市など県北西部、さらに長崎県平戸市、松浦市、壱岐、五島列島まで広がっている。

 八幡崇経宮司は「橋村肥前大夫は伊勢神社を拠点にしており、伊勢神社が九州の“ミニ大神宮”の地位を占めていた」と分析する。

 それを裏付けるように、伊勢神社の近くの家から、神札を刷った版木が見つかった。「太神宮」の文字と、「御師 橋村肥前大夫」の名が刻まれている。八幡宮司は「他の地域でも御師は、『伊勢屋』と呼ばれた逗留(とうりゅう)先の宿で神札を刷っていた。その裏付けとなる貴重な資料」と強調する。

 ◆藩主の庇護

 御師の活動とともに、藩主による庇護(ひご)も伊勢信仰を支えていた。伊勢神社で得られるとされる御利益には、商売繁盛、五穀豊穣ほうじょうなどがあるが、中でも特徴的なのは子授け・安産だ。

 後に佐賀藩の藩祖となる鍋島直茂と妻の陽泰院ようたいいんは、子宝に恵まれなかった。2人が神社に17日間通い続けたところ、陽泰院の夢枕に天照大神あまてらすおおみかみが立つ。そこで、ようやく生まれた長男に神の名にちなんで「伊勢松」と名付けた。後の佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂である。

 直茂と陽泰院の希望を受けて1605(慶長10)年、神社はそれまでの鍋島村蛎久の地から現在の伊勢神社がある伊勢屋町(現在の伊勢町)に遷(うつ)された。この時期は、勝茂が藩主の座に就き、佐賀城の改修を進めた時期にも重なる。

 八幡崇経宮司は「このいきさつは、鍋島勝茂の年譜に詳しい。鍋島家の伊勢信仰に端を発し、築城に際して現在地に遷して藩主の崇敬が続けられた」と指摘する。

 伊勢神社を拠点に布教に回った御師と、それを庇護した藩主の強い関係性が、伊勢信仰を佐賀に根付かせていった。