宮下奈都さんの小説『羊と鋼の森』を読んでいて、メモに残した一文がある。ピアノ調律師の主人公が先輩の調律師に「どんな音を目指していますか」と問う場面である◆先輩は作家の原民喜(たみき)(1905~51年)の言葉を伝える。〈明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛(たた)えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体〉。原はそんな文体に憧れると書いているが、文体を音に置き換えれば自分の理想を表していると答えた◆文体を演技に置き換えたなら、そのまま重なるように思えてこの場面が浮かんだ。高難度の技は厳しく深いものを湛えて夢のように美しいが、確かな現実。見る人を引きつけ、世界の体操界をけん引した内村航平選手(33)である◆諫早市出身で、10代から日本のエースとして活躍。五輪では個人総合2連覇を含め、7個のメダルを獲得するなど偉業を成し遂げた。誰よりも練習を積んだ技はさらりとこなしているように映り、最もこだわった着地もぴたりと決めて魅了した◆昨日の引退会見では「世界一の練習が難しくなった。今後は競技者でなく、演技者としてやっていく。体が動く限り、体操を研究したい」と先を見据えた。不世出の逸材が目指す理想に、終止符を打つ着地点はないのだろう。(知)

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