1941(昭和16)年11月20日の「百武三郎日記」。「上辺の決意行過ぎの如く見ゆ」などの記述が見える

 百武日記の記述と開戦の経緯

 日米開戦から80年の今年、昭和天皇の侍従長だった百武三郎(1872―1963)=佐賀県出身=が残した日記が公開された。昭和天皇は非戦論者だったとされるが、側近の内大臣木戸幸一の言葉として天皇の開戦への決意が「行過ぎの如く見ゆ」と記されるなど、開戦か非戦か時勢の中で揺れ動いた天皇の姿が浮かび上がる。

 日記は、百武の遺族から東大に寄託され、今年9月に閲覧可能になった。海軍大将だった百武は、二・二六事件で襲撃され重傷を負った鈴木貫太郎の後任として36年から44年まで侍従長を務めた。

 日米開戦を巡る記述としてまず目を引くのは、41年10月13日の日記。松平恒雄宮内大臣が天皇に拝謁(はいえつ)した後「切迫の時機に対し、已(すで)に覚悟あらせらるゝが如き御様子」と話したと記し、木戸がそうした「御先行」を「御引止め申上ぐる旨」を話したと記録している。また百武自身の感想として、天皇の表情が「先頃来案外に明朗」だったと表現している。

 この時期、日本は南部仏領インドシナ進駐に対する対日石油輸出禁止などで米国との交渉に難航していたが、天皇は開戦には否定的で、有名な9月6日の御前会議では、天皇は発言しないとの慣例を破り、明治天皇の歌を読み上げて、平和への思いを示した。

 百武日記によると、天皇は10月9日に伏見宮から対米主戦論を説かれ「之れなくば陸軍に反乱起らん」「人民は皆開戦を希望す」とまで言われた。

 百武日記はこのときの天皇の様子を「御昂奮」と表現するが、「昭和天皇実録」によれば「結局一戦は避け難いかもしれざるも、今はその時機ではなく、なお外交交渉により尽くすべき手段がある」と話したという。

 開戦約20日前の11月20日になると、天皇が前のめりになっていたと取れる記述がある。百武は「決意行過ぎの如く見ゆ」との木戸の言葉を記した。木戸は「米大統領は(日米交渉の)妥結を熱望している」と伝えたという。

 しかし、天皇の心はまだ揺れていたようだ。11月26日の「木戸幸一日記」は天皇の「いよいよ最後の決意をなすについては、なお一度広く重臣を会して意見を徴してはいかがかと思う」との言葉を記している。

 日本時間のその翌日、事実上の最後通告である「ハル・ノート」が米国側から手交され、開戦は避けられなくなった。【共同】