「古唐津は粘土ではなく、砂岩を原料に生成された陶土によって作られていた」…そんな説が今や現代陶唐津焼シーンの〝常識〟となっている。今回の「サカズキノ國 特別編」では失われた古唐津の製法にたどり着き、復活させたイノベーターやその継承者たちにスポットを当てた座談会をお送りします。

前から山本亮平氏、石井義久氏、吉野敬子氏、矢野直人氏

唐津焼の魅力

村多:今日はありがとうございます。いつもの勝見師匠は無地唐津の盃で代理参加と相成ります(笑)。皆さんよろしくお願いします!

矢野:じゃあ、吉野さんには俺、注ごうかな?結構なみなみ。

村多:あれ、指が入ってなかった?(笑)前回の白洲(信哉)さんの時すごかった。こんなでかい片口、こうやってもっていたからね。

矢野:あの豪快な注ぎ方でしょ?(笑)

村多:そうそう(笑)。それにしても贅沢ですね。ここで昼間から呑めるっていう。では、始めましょう。まずは作家の皆さんにとっての、「唐津焼の魅力」って何ですかね? 山本さんと目が合ったから山本さんから聞こう。

山本:僕はもともとそんな興味があったわけじゃないんですよね。最初、食器を作っていた時に矢野君が早朝からやってきて。

矢野:何年前ですか?

山本:あれはちょうど矢野君が古唐津にハマりだした頃。

矢野:もう15、6年前ですか、(有田窯業大学校を)卒業してもね。

村多:陶土の素材を探しにあの辺、有田町に行ってた?

山本:素材もそうだけどうちの周りは窯跡があるから。

村多:ああ、なるほどね。

山本:いきなり来て、その時は、は~い、行っといでぐらいの感じで。僕は古いものに関心がなくて。

矢野:亮平さんは白磁をやっている頃で。「陶片なんか、家の前にも落ちてるよ」、みたいな風で興味がなくて。僕はそれで「陶片あるんですか、本当ですか?」みたいな(笑)。

山本:今も陶片は当たり前のように、家の庭からも出てきたりとかするので。

村多:じゃ、最初は全然意識してなくて、矢野直人がトリガーを引いた?

山本:トリガーってわけでは…。

矢野:僕がきっかけです(笑)。

山本:こんな陶片に興味があるんだ、ぐらい。まあ、意識はもちろんあったんですが。でもその頃ぐらいからですか、家のそばに古唐津や初期伊万里を焼いていた窯跡があって、毎日、目にするようなものが急に…あのシンプルな無地唐津の、しかも雑器寄りの小皿の陶片がかっこよく思えてきて。

村多:そこから自分でも唐津焼を作ってみよう、っていう感じになったんですね。それを聴くと矢野さんは間違いなくトリガーだ(笑)。そんな矢野さんはどうなんですか?

矢野:僕は30歳の頃に見た、門司の出光(美術館)であった古唐津展を見て衝撃を受けた、っていうのが最初でした。

村多:アメリカに留学して帰ってきて、学校で学んでいたんだよね?

矢野:有田のやきもの学校で。父もやきもの…唐津焼をベースでやってて、唐津焼っていうものはこういうものだろう、っていうイメージは持っていたつもり。けれど、初めて古唐津の展示会を見たときに全く別物で衝撃を受けた…それがきっかけだった。

村多: 2人とも2000年代なんだよね。やきものを始めたの。古唐津についてもそう?

矢野:今は2021年…そうですね。

村多:吉野さんはお父さん(吉野靖義氏 故人)が作陶家。

故 吉野靖義氏

吉野:そうですね。

村多:どうなんですか?お父さんが身近にいて、やきものをやってるってとこに対して反発みたいなものはなかったんですか?

吉野:はい、反発はありましたね。最初は全然違うのを作ってやろうみたいなのがあって。白磁っていうか本当に白いのばっかりの展覧会していたんです。けれど、父が土の研究を始めて、それがすごく面白かった。そのうちになんか「古唐津すごいな」、ってなりまして…自然とそっちに行ったみたいな感じですね。

村多:ちなみに、ここよりもうちょっと奥に入ったところに桃山時代の窯跡がある。

吉野:そうです。窯跡もあったし。陶片も本当にここの場所で、みたいなとこがすぐ近くにあるわけ。

村多:環境的にはベストですよね。

矢野:奥っていってももう何十メートルですからね。実際ここに住んでた人も、もしかしたら焼いてたかもしれないとか。

村多:確かに。

吉野:自分のご先祖様も、もしかしたらやきものやってたかもとか思うと、やっぱり再現したいな、とかそういう気持ちもありますね。

村多:石井さんはお若いんだけど、どうなんですか?あれ、もう真っ赤だ!

石井:僕はアルコールの回りが早いので。

村多:矢野さんのお弟子さんになったんだもんね。

石井:はい。自分は高校卒業して19、20歳の時に矢野さんの所に薪割りの手伝いで行ったのがきっかけで…。

村多:興味があって行ったの?それともなんとなくバイト感覚で行ったの?

矢野:説明すると、学生時代の、石井の先輩になる方と自分と交流があって、で、行ってみる?みたいな。まあ軽いノリっていうか、そういうので薪割りについて来たみたいな。

石井:本当にそういうところですね。

村多:でもそれが今、生業になってんいるんだもんね。

石井:生業にまでになっているか、というとそうとも言えないんですけど。

村多:だって、独立したわけでしょ。

石井:はい、そうですね。やきものを始めたその時から興味のある人たち…山本さんとか吉野さんの所にもなんか遊びに行く機会は、学生の時からご縁があって、それがこうなんか今でもあるっていうのはなんとも不思議と言うか。

「古唐津・砂岩説」を提唱した須藤善光氏・それを具現化した吉野靖義氏、梶原靖元氏

村多:この4人は唐津焼の中で言うと砂岩を主原料として作陶している方々ですが、唐津焼を作る作陶家は多くいますが、容易に手に入る粘土ではなくて、なんで砂岩から陶土を作るところからやっているのか?みたいなところから話を進めたいと思います。

吉野さん、芸術新潮「古唐津 桃山ルネサンス」が刊行されたのが2004年でしたかね?古唐津展が東京の出光美術館であった時、芸術新潮はその展覧会と連動した特集でした。その誌面で古唐津は粘土でやってたものではない、という方がいて、それに吉野靖義さん、または梶原靖元さん、このお二方がそれらに触発をされて砂岩で陶土をつくり、作陶をし出した、っていう流れがあると思うんですけど、砂岩で陶土を生成することを提唱した方のことを教えてもらっていいですか?

吉野:須藤善光(すどうよしみつ 故人)さんという、作陶家相手の陶土を販売されていた方で、韓国との交流とかもあって朝鮮半島の事に詳しくて。向こうのそのやきもの作りをよくご存じで「唐津は朝鮮半島のやきものと同じで陶土は石から作ったに違いない」っていうことをおっしゃって(注:朝鮮半島では陶工が日本にやってきた時代には陶石から陶土を生成し、作陶していた)。父も最初、本当に信じてなかったんです。粘土で作るのが当たり前って思っていて…古唐津はどう見ても粘土じゃないか…みたいな感じだったんですけど。それが別の件で須藤さんのアドバイスで自分たちの常識を覆されたことがあって…それで「須藤さんの言うことを信じてみよう」って感じになったんです。嘘かもしれんけど、まあ面白いじゃないか、って感じ。当時、父も行き詰まってるようなとこもあったので…須藤さんは朝鮮半島から来た陶工がこの、櫨ノ谷でやきものをするにあたって向こうと同じ技術で作っていたに違いないっていうことをおっしゃって。そうに違いない、と。

2014年唐津やきもん祭り パネルディスカッションにて発言する故須藤善光氏(左)

村多:普通に考えて…異国に来たとは言っても、そこでいきなり自分たちがやってきた製法と違うことはやらないですよね。素直にその須藤さんという方が朝鮮半島では石を砕いて水簸して陶土を作っているんだったら、それをそのままこっちでやってたんじゃないか?っていうのは自然ですよね。

吉野:うん、自然なんですよね。それが腑に落ちたんですよ。なんて言うか、今までその柔らかい具合を求めると、低い温度で焼く。で、粘土でそれをやるとどうしても焼き締まらなくてこう。カビが生えちゃったり、とか。

村多:そういえば、私が初めて唐津に来た時に唐津焼のぐい吞みを買ったんですが「目止め」の説明文が入っていました。使う前には米のとぎ汁みたいなものを入れて、と。で、その前に萩に行ったときに、同じ説明文が入っていて。

吉野:そう、そうなんですよ。

矢野:技術が入ってきた頃、朝鮮半島では粉青沙器から白磁に移行するというか白磁も焼き始めていた時代でもあるし。

村多:朝鮮半島から多くの人たちがこちらにやってきて、いろんな所に住みついて、生きていくためにやきものをはじめた。その始めたその時にやっぱりここにある材料で、やり方は向こうのやり方だよ、と。

吉野:そうなんですよね。父も櫨ノ谷では粘土が採れない、この周辺で採ろうにも粘土がないじゃないかって…だけど、ここに窯跡があるという…っていうのでストンと落ちたみたいな。ああそうか、と。

村多:須藤さんのお話しで最初に腹に落ちた出来事があったっておっしゃったじゃないですか。それはお話しできないことですか?

吉野:父がね。そう信用するようになったっていうのは、窯の焚き方で、窯焚きの時に須藤さんがいらっしゃって。今までやってたこととは180°逆のことをアドバイスされて、もう「えいくそ!」みたいな感じでやったんです。そうしたら断然、そっちのほうが良かった、ってことがあったんです。

矢野: 上手くいった?

山本:それは何から何へ変わった?

村多:そうそう。その180°転換が知りたい!

吉野:窯の焚き方では最終的に蓄熱させること。今はそうやるけれど、昔の窯は違うだろう、って。古唐津を焼いていた当時の土窯は例えればアルミの鍋みたいな。現代の窯は圧力鍋じゃないか。そんな全部塞いでしまって。それでいいのか!みたいなことを言われて。で、須藤さんのアドバイスで朝鮮唐津がそれまで全然ダメだったんだけども、それから良くなって。

吉野敬子氏
吉野敬子氏

村多:昭和の頭に「唐津焼の復活」っていうのがあって、その時にひとつの製法(粘土で作る)というのが定まった。それを作陶家の皆さんは昭和の時代、ずっとそれをやっていた。それが平成になって、須藤さんの問題提起があって、それに吉野さんが学んで、さらには梶原さんが突き詰めていった。そこで…陶土は砂岩から作られたんじゃないかっていう流れができた…というのが理解できました。風合いがね、粘土で焼かれたものと古唐津の陶片を比べると明らかに違うじゃないですか。でも、砂岩を原料に焼かれたものっていうと、古唐津そのまんまですよね。作陶をしない私はもうシンプルに朝鮮半島から来た人が向こうのやり方で肥前地方にある材料で作ったというところで腑に落ちるし、皆さんが砂岩を原料に作ったやきものを見ると、古唐津は粘土で焼かれたのではない、って普通に考えるようになったんです。

シーンを牽引する作陶家たちの目線

山本:砂岩ですか…僕は最初にやっぱり思ったのは古唐津の窯跡陶片を見て、これはカッコいいな、って時分に梶原さんの作品を目にしたんです。梶原さんの作品は古唐津ほぼそのまんまじゃないか、と思って。それで調べたら砂岩、って出てきて…それからすぐに梶原さんの所に通いで学ばせてもらえないか、って訪ねたんです。

矢野:何回ぐらい行ったんですか?三回ぐらい??(笑)

山本:半年以上は(笑)。

矢野:半年で何回ぐらい??

村多:それさ、時々出るよね、話題として。

吉野:なんで?

村多:そんなに行ってないでしょ!って矢野さん流突っ込みとして(笑)

山本:でもね、行くたびにすごく勉強になって。

村多:回数の問題じゃないじゃん。どれだけ集中して学んでるかって言うとこでしょ。

矢野:やっぱり、行動をするってことが重要。

山本:緻密な作業なんですよ。砂岩を斫(はつ)るとか、砕くこととか。

村多:斫って、砕いて、不純物を取り出して。鬼板(鉄)を取り出して…あれを今の時代は1人でやるんだもんね。古唐津を作っていた当時は分業じゃないですか。何十人も人がいて。今はそれを全部1人でやって。

山本:一番学んだのは地道な作業ってこと。それが当たり前なんだ、と。知らない人が見たら、わざわざ大変なことを…粘土でやきものが作れるのに、何で砂岩から陶土を作る、って事をしなきゃいけないんだって。そんな意見が当時はあったと思うんだけど。

砂岩

矢野:ホント常識っていうのは怖いですよね。粘土で作ることが常識だった。例えば教育の常識なんかでも自分らが中学生の頃って体育の先生から叩かれたり、廊下走ってたら職員室呼ばれて先生はタバコ吸いながら説教された、みたいな。当時はそれが当たり前って…今はあり得ないですね。

村多:あの頃は運動の時に水を飲むなと言われたな(笑)。

矢野:昭和の最初の頃になると、政治家が不倫問題とかでタバコ吸いながら記者会見で、なんだこの野郎みたいな態度で…。それは一例として、常識ってのは50年、いや30年でも変わるし、常識に浸っちゃうと感覚的に「それないだろう」みたいになるけど、それがさ、古唐津みたいに400年になると、もう想像がつかないっていうかね。

村多:吉野(靖義)さんが砂岩を材料として陶土を作って唐津を焼き始めた頃とかは、大変だったと思うんだよ。だって、粘土を売ってる人もいるしさ。「何言ってんだ、この人は?」と。まあ、突拍子もないこと言ってんなーって。バッシングもあっただろうし。梶原さんもそうだったと思う。それをブレずに貫いて、今はそれがメインストリームになってるわけで。矢野さんが言ったみたいに作陶の常識も変わってきた。やっぱすごいですね。強さ。吉野靖義さんと梶原靖元さんはすごいな、と思います。それに…早いタイミングでその製法に関心を持ち、実践してきたこの4人の作家さんが今、唐津焼のシーンを引っ張っているという事実。で、皆さんやっぱり磁器もやるんだもんね。そこもすごいな。もともと磁器を作ってる人が朝鮮半島から肥前にやってきて唐津焼を創ったんだけど、その流れを汲んでいるところが素晴らしい。

山本:その磁器の流れで話すと…梶原さんが言われていた印象的な言葉があるんです。「十何年かけてやっと砂岩から陶土を作り、唐津を作ることができるようになった。でもね、それをずっとやっているところが肥前にあった、それが有田だ」って。有田、というか伊万里はまさに陶石を砕いて…等々、吉野さんや梶原さんが見つけ出した唐津焼の工程と全く同じなんです。水簸して、とか。だからわれわれが白磁を作っている、砂岩を砕いている、ってことは同じことなんです。

矢野:肥前陶磁の面白み、っていうのは、やっぱりその一連の流れがあるっていうか、李朝があって、唐津があって、伊万里になる。その技法は同じなんですよ。素材が違う。その時の時代背景が違うから…唐津は李朝の技術、唐津の素材、日本の文化、その当時に流通できるデザインだったりが入って。試行錯誤をしてできたものが唐津焼。その後に泉山やその近辺で白磁に適した素材が見つかって、同じ技術で初期伊万里が始まる。

山本:古唐津の技術はそのまま、伊万里の技術として引き継がれていく…。まあ、唐津は衰退し、昭和になって当時とは全く別物のやきものとして復活した。

矢野:400年のブランクがあるから。

村多:技術は有田に遺っていたけれど、唐津では消滅していた…。

山本:技術は有田に白磁製法として残っていたけれど、唐津と伊万里の製法は同じなんだってことをみんなが認識できていなかった。

矢野:磁器、陶器っていうことで分けて考えちゃってたんです。

村多:さっきの話に戻しますが…須藤さんに180°違うことを言われて、それをやってのけた吉野(靖義)さんがいて、それをまたさらに自分のものにしようとした梶原さんという人がいて…イノベーションはこの3人によって起こされたわけで。イノベーションを起こすときにはさっきも言ったようにすさまじい反発もあるだろうし、それをブレずにやってきたっていうのは尊敬でしかない。ただ一方では綿々と技術は遺っていたものだったんだよね。矢野さんはどうなの?なぜ砂岩でやろう、って思ったんですか?

矢野:古いもの、30歳の時に出光美術館の展示会を見て衝撃を受けた。それで、古唐津研究交流会に入って…。やっぱり吉野さんのお父さんの作っていたものだったり、梶原さんのものと、ほかの作陶家との違いっていうのは、僕は最初から感じていたんです。作品の良い悪いとかはまた別として、素材感の「あれっ」ていうのは最初から感じていて。

村多:最初からそんな感じだったから、砂岩で作るでしょう、みたいなところで。ここに集う皆さんは今は注文品以外はほぼ砂岩でやっているんですよね、粘土で作るものもある。それぞれリクエストに応じてやってますけど。

矢野:そうです、砂岩です。例えば吉野(靖義)さんとか梶原さんの作品の、10年前、15年前っていうのは「これってうん、どうなんだって」いうような感じも正直あったんです。でも自分らはその後の世代…第一世代の吉野(靖義)さんや梶原さんのおかげで情報があったんです。そして、今はみんなが「磁器もやるよ」みたいに選択肢がたくさんあるんです。時代的にいろんなものを取り寄せようと思えば取り寄せることができるでしょ。作りたいものの選択肢が広がってるっていう感覚ですかね…だから磁器もやるし、いろんなこともやっている。そんな日々の中で自分は、と言えば「唐津焼を作りたい」っていう思いの割合がどんどん増えていってるっていう感覚があるんです。自分の中ではやりたいことは「唐津焼だ」ってところがとてつもなく強い。

村多:選択肢も広がったと。でも、まあ、その中でもいろいろやったけれど、唐津になったと。

矢野:唐津になった、というか唐津が好きだから、いい唐津を作りたい、っていうのが一番やりたいこと。

村多:石井さん、一番やりたいことは唐津と師匠の矢野さんはおっしゃっているけれど。

石井:はい、自分は師匠に4年間お世話になっていて。唐津出身の方で唐津焼をされている方っていうのは、唐津愛がより強いんです。僕とか出身が他県というのもあって、素直にカッコイイやきものに対する憧れがあるんです。唐津愛が第一で、唐津焼をしたい、というのではないんです。僕は第一が唐津焼…かっこいいってのが唐津焼なんです。父親が白磁をやっていて、その影響もあってこっちで有田にやきものの勉強しようとやってきたんですけれども、現代の有田では興味をひく白磁がなくて、それで唐津に来た…でも最初は唐津焼の魅力がわからなくて。漠然とかっこいいな、作りたいなぐらいしか考えていなくて。そういう中、矢野さん世代であったりとか、今40代の世代とかがやっているような仕事が素直にカッコ良かった。加えて窯跡とかで見る陶片が魅力的で…こういうものを作れる人間でありたいな、というのが強く芽生え、陶片に近づきたいな、と。そう思った時に素材の知識がないと近づけない…それをやらせてくださったのが矢野さんなんです。

村多:石井さんはいろんな偶然が重なって矢野さんと出会って、ぼんやりしたものがそこで輪郭がくっきりした、ということで…それでヤフオク地獄、なんですね(笑)。買ったばかりの古唐津のぐい飲みを喜んでいたら、バッグからその古唐津が飛び出しちゃって、割れてしまったとか…(笑)。

石井義久氏

石井:そうですね。ある意味マッドでしたね。

矢野:おかしいことは全然ない!感じちゃうとしょうがないですよ。石井は古唐津にしびれちゃったから。

村多:矢野さんも出会った頃は古いものとか興味がない感じだったよね。古唐津研究交流会の勉強会は来てたけど…。自分で古唐津を買ったり、っていうタイプではないかなと思っていたんですよ。

矢野:きっかけも村多さんの責任ですよ(笑)。やっぱりご縁というか、古唐津に本当にしびれちゃって。村多さんの好き加減っていうのって伝わって、僕はそれに感染した。それはもう全然普通のこと。

村多:どうですか?山本さん、このこういう感じを見てる?と。山本さん、ほら、古いものをね、きちんと見ながら作って、自分の世界観を作っているけれども、集めようっていうところはそんなにないでしょ。

山本:はい。

矢野:いやね、多分ね、あると思いますよ。

山本:いやぁ、本当になくて。自分が面白いなと思っているのはその「考え方」が変わるところなんです。やきものを知ろうとするとまず「陶器、磁器があって」的な説明文があるじゃないですか。でもこの古唐津って、それじゃあ説明がつかない。それと明治にその陶器、磁器と分類されて常識とされてきたことがひっくり返った瞬間というか、その価値観の転換の方にすごい興味があって。「もの」というより「考え方」なんです。

山本亮平氏

村多:今の価値観があるっていうところで言うと砂岩で作ると言うこと自体もすごいことだったと思うけど、皆さん、今やってるんだもんね。

山本:そう。それで古唐津は砂岩から、ということが。

村多:また、先輩たちが道を作ってくれたから、歩けるようになった、と。

矢野:僕はまだ、古唐津は砂岩から、っていうのは作陶家の常識とは言い切れないような空気を感じますね。自分の中での感じていることは「砂岩で作られていた」なんですが。

村多:唐津焼の本来の製法が砂岩から生成された陶土で、というのは見えたわけで。でも、唐津焼の作陶家が皆、砂岩に振り切れないのは何でなんですか?

矢野:常識でしょ、常識。

山本:それで言うと僕は考えが違うんだよね。多分、粘土でやってる作家はもう「古唐津は砂岩」、ってのはわかった…だけど「自分のスタイルとしては粘土かな」って。つまり砂岩・粘土を認識して自身で選択しているわけ。作家たちとを話していて、そんな感じがしますね。

村多:なるほどね。あとね、砂岩から陶土にするまでっていうプロセスがまぁ大変で…。そこに対して労力を割けるのか、とか、インフラへの投資ができるのか、ということ言うこともあると思う。普通に砂岩を砕くのって、大変ですよね。

矢野:僕は長年の常識の積み重ね…で、昭和に活躍した先輩方への憧れ、みたいなことから、選択肢はいろんなのがあるといいと思います。「砂岩でするからいい、粘土でするからダメ」っていうのは全然なくて。 ただ、そのインフラへの投資であったり、ということも大変ではあるけども、本気でやろうと思えばやれること。だから古唐津に「しびれるか」に尽きる。本当に好きだったら知りたいわけで。

村多:私が窯跡に行くのは、そういうことを確かめたくって。知りたかったことを机上でまとめて現地で確かめる。現場にいくと吉野さんや梶原さんが言われたように必ず窯跡の両側には川がある。窯に水は必要だったからで。そして、窯の築かれた場所ってのも、傾斜のある舌状丘陵でスウっと、窯が上がっていることが容易に想像できる…でね、そんな過程で世の古唐津談義で言われてることの、先輩方のちょっと間違ってることがね、わかってくるんだよね。
話が戻っちゃうんだけどさ、吉野(靖義)さんと梶原さんが向き合ってきた「粘土で作る、という常識という壁」。理解してもらうのは相当大変だったと思います。でね、山本さんや矢野さん、吉野さんもその砂岩でやっていることにいろいろ他者から言われたりしたんでしょうか?

矢野山本吉野:そんなに言われることない。

吉野:ちょっとお話しさせてください。絵唐津の話。なんかね、父がやっていた絵唐津なんだけど砂岩でやる前は好きじゃなかったんです。正直ダサいと思ってたんですよ。唐津焼を作る作陶家はみんなが絵唐津を作るけど、すごくダサいと思ってて。

村多:僕も初めの頃は朝鮮唐津や斑とかキャッチーなものに魅かれていたなぁ。

吉野:ですよね。だから私は絵唐津はやれないなぁ、と思っていたんです。そうしたら父が砂岩で唐津焼を作りだして。焼き上がって、窯から出てきた絵唐津を見ているうちに「いいなぁ」、って思うようになって。そんな経験を経て、唐津焼ってのは絵唐津なんだな、って。

矢野:唐津焼は斑も唐津(笑)。

村多:ハハハ。でね、ここまでのお話を整えると…先人がいて、いろんなことがありながらここまできて、ここに集う皆さんはストレスなく白磁も作れば、陶器たる唐津もやってる。自分がやりたいことはいろいろあると思うんですけどね。今後、その唐津焼というフィールドで自分を表現する場合、どういう風にやりたいですか? 例えば山本さんは? 山本さんは唐津、白磁両方やってるけど。唐津焼ではどういう風にやっていきたいですか?

山本:僕が一番スタンスが違うとは思うんです。さっきも話したけれど、考え方における陶器、磁器の境をなくす…っていう目標みたいのは常にあるんです。自宅の周りの小物成、天神森っていう二つの窯跡は陶器、磁器を一緒に焼いていた。陶片見てもこっちが砂岩、こっちが陶石なんですけど、ほぼほぼ一緒。そういう環境だから、唐津焼とは?っていう枠ではなくて…。

村多:山本さんの作品は唐津が評価されるのはもちろん、それ以上に白磁がクラフト界隈ですごい評価されている。都内のセレクトショップに行くと「山本亮平展」ってことはなしに作品が定番で置かれていたり…だから、ああ、なるほどねって思うわけですよ。それらが僕の中に頭にあるから、今、山本さんがおっしゃったボーダレスにやきものというものにさえこだわらないみたいな考え方が理解できる。それに突っ込む矢野さん!(笑)。

矢野:言いたくなるんですよ、やっぱり。自分は唐津出身。田舎で育って、亮平さんは東京育ちでいろんなものを見てきて、感じて、そして美術大学に行って今がある。ものを作る上でも人それぞれ、いろいろあっていい、ないといけない、っていうか。で、亮平さんがモノを作り出す、という意味で言うと自分とおんなじか?っていうと違う部分もあるわけで。

村多:それは当たり前のこととして、だよね。やっぱりものを作り出してるクリエーターだから、みんながみんな、一緒にならないよね。それでね、石井さん。どうなの?こういう先輩方見てきて…あっ、だいぶ出来上がってきてる(笑)。

石井:僕は先輩方の話を今聴きながらお酒を飲みつつ…みたいな感じで。

それぞれのヴィジョン

村多:今後の自分をどうやって表現していきたいのか、と。唐津焼っていう面で。ただ、山本さんみたいにもう唐津焼も何も関係ないと。もう、そのボーダレスでやるんだっていうのも入れつつ、関わりながらもどうしていきたいって含めて、じゃあ自分としてどういう風にやってくるんだろう?

石井:僕とかまだ工房もしっかりしているわけではないし、発展途上なんですけど。作陶家の父親の周りを見ても、関東でやってる信楽焼とかがあって。そこでうまくされている方もいるんですけど、自分としてはそこを理解されるのは難しいなあというのは感じていて。

村多:インフラが整えば、さらに自分を表現はできると。それで言うと、今後自分はその唐津焼っていう枠の中で、「石井義久」というフィルターを通してどういう風にして表現していきたいんでしょうか?

石井:どうあがいても、生まれ育った環境で常識ってのは違ったりとかするので。学んでいて、最初のうちはだれかれの作品に似ているね、とか思われるんだろうな、と。ただ自分のしたいことを繰り返していたら、必然的に評価も変わっていくと思うんです。今、僕はただひたすら「したいことをする」っていうのがプライオリティで。それしかできないというか、自分をこう表現しようとか、理解してもらえるようにこうしよう、ってのは不器用なのでできません。今、自分がしたいことをする、っていうことを優先してやって、ひたすらに自分を表現し続けます。

村多:やってるうちに何か見えてくるんじゃないかというのが、石井さんのその唐津焼っていうフィルターを通しての目指すところ?

石井:自分を表現したい、というよりか、自分のしたいことをする、って感じです。

村多:吉野さんはどうなんですか?ある意味、起爆剤を作ったお父様が居て、古い窯跡のそばに住んで、作陶されていて…唐津焼っていうフィルターを通して今後の自分、っていうのはどんな感じですかね?

吉野:ここ櫨ノ谷には昔、やきものを焼いてた人たちがいた。私はこの辺りの素材で、この谷だけで完結できないか、という思いを持っていて…この谷で採れた砂岩だったり、木だったり、藁だったり、っていう素材でやきものをつくる。ここで採れた、ほんと、農産物みたいなやきものが私が思う「本物」だと思うのでそれをやっていきたいですね。ここは黒っぽい土も取れるし、白っぽい土もとれる。だから三島でやってみたりとか…どういう表現方法になるかわかんないですけど。

櫨ノ谷古窯出土 斑皮鯨小皿陶片

村多:なるほど!それは楽しみです。

吉野:よそでは絶対にできない。誰かが真似しようとしてもできないものができるんじゃないかなぁ、と思うんです。結局自分の力じゃない…いわば、この土地の力なんですけど。

山本:自分の力じゃなくて、土地の力、ってのはうなずけるなぁ。

村多:このメンバーの中で言うと、やはり吉野さんと矢野さんのところにはわかりやすい歴史があって。吉野さんは400年以上前にここに来た人の末裔ですもんね。すごいストーリーを持っている。だから、この谷のもので、やきものを作っていくっていうところが目標と言われると、メチャメチャ腹落ちしますよね。私も山本さんもさらには石井さんも東京から来た、言わばストレンジャー。違うところから来てるから、私自身、吉野さんとか矢野さんにすごく憧れてしまう。

吉野:いやいや、山本さんの窯をつくるスピード感とか、やっぱりよそから来た人じゃないとできないことだ!なんて思いますね。ちょっとすごいびっくりしましたもん。

村多:矢野さんはどうなんだろう?唐津焼、というフィルターで自分はどうやって行きたいのか?土地の力、って話が出たけれど、唐津焼を広めた功労者の一人、戦国大名の寺澤広高が文禄・慶長の役時に陣を構えた所…そこに家と窯があるんだよね。

矢野:陣跡はね、それはただそこにあるだけ、ですね。自分がどうしたいか?と言われれば、唐津を作りたい。唐津は何か?と言えば、伝統工芸ですよね。様式がないと伝統工芸って成り立たないと思うので、その様式内の唐津焼、となると…やっぱり「古唐津」しか基準がない。個人を持ち出すと、もうどうにでも、なんでもあり、になっていくし。自分は唐津で生まれて唐津が好きだから、その「自分自身を求める」っていう興味はない、ゼロなんです。そりゃいろいろやりますよ、やってるのも事実だけど、心の中の、その中心は…もう自分の興味っていうのはないわけです。「唐津焼」への興味しかないんですよね。矢野直人に興味はない。

持ち寄った古唐津

村多:みんなやりたいことをやるっていうところを、矢野さんの言う「唐津という枠」の中でやるうちにブレイクスルーできるんじゃないの?みたいなところですかね。皆さんはクリエイターだから。

山本:唐津という枠に限って言えば、その「作為無作為」とか、陶芸全般にも常に言われている「写し」とか「奥高麗」とか、度々出てくる古唐津関連のワードに対してどうなるかっていうのを一つ一つ確かめていくことに興味がある。土の登り窯を作ったのは、そういう意図もあって。意識の内外とかに興味がある。

矢野:奥高麗って作為無作為、山本さんはどう思いますか?

山本:奥高麗は窯の裏の方で焼いたとか言うけれど、作為として置き場所を決めて焼いている。直置きで甘いとこに行ったら、すごい柔らかい仕上がりになるんですよ。

村多:おそらくその話になると、最初はもう全然無作為だったんですよ。それを茶人が目を利かせて採り上げた。次のフェイズで注文品として「こういうの焼いて」ということになった。だから最初は無作為だったんだけど、その後に売るっていう前提が入ってきて作為が加わった。当時の桃山文化を担うそうそうたる人が唐津に来ていたわけで。

山本:無作為って続くものじゃないので。次第に作為を帯びるのは当然のこと。

村多:まとめに入りたいと思いますけど、本来の製法…砂岩で作った、ストーリーがあるやきものを背負ってますよ、皆さん。石井さん、次世代のリーダーでしょ!

石井:いやいやいや、もう全然。僕はずっと底辺で。これがちょうどいいなと思っていたんで。けれど、自分は作陶してきて、年齢とともにお料理屋さんで修行していた方たちも年齢とともに独立されたりとか、器に興味ある人たちが年齢とともに会話ができるっていうか…共感できる人が増えてきた気がするというか。

村多:矢野さんのお弟子さんの、栗田さんとか?

石井:そうではなくて…。ほかの分野で、例えば山本さんの所に器を買いに来たお料理屋さんのお弟子さんとか、僕の展示会の時に、料理人の若い方でこれから独立する際に使う器を集めようと思っていて、みたいな方が見にきてくれたりとか…それが皆さん、若かったり…自分が学生の時とか、弟子であった20代前半の頃、器の会話をできる人はいなかったんですけど、30過ぎた今、素直に「こういう器、カッコイイよね」みたいな会話ができる人が増えてきている気がして。こういうのはなんか時間とともに共有できる人が増えてきている感覚があるんです。

村多:SNSも含めて、拡散共有の手段も拡がって、やりやすくなってるじゃないですか。一方でね。作陶家の方々、なかなかSNSを使ってないんだよね。

石井:残念ながらそうですね。

村多:石井さんはSNSど真ん中の世代じゃないですか。ご自身のインスタも更新が全くされてない(笑)。でもそれはさっきご自分が言われていた「自分が好きなことをやるんだ」っていうところで言うと、言行一致。ピタッと合っているわけですよ。インスタグラムも自分が好きな時だけしっかりやるんだってんだったらオッケー。でも意識を持つともっと変わるかなって思ったりもするんですけどね。

石井:はい、ちょっとずつ。頑張ろうって気持ちは常にあるんですけど(笑)。

波佐見焼の成功・ブランディング

村多:でね…波佐見焼は受けているじゃないですか。世の中的に。確かに素晴らしい。あそこもやっぱりストーリーがあるやきものだよね。有田は横、武雄があって、伊万里があって。いろいろできると思うんですけどどうなんですかね?波佐見っていうものを見てやっぱ東京でいうとブランドなんだよね、波佐見って。意識のある人たちは波佐見を買うんですよ。そういう風なところも含めて今後どうして行きたいたいんでしょうか。具体的に山本さんとかありますか?波佐見の隣に住んでるけど。

山本:波佐見は波佐見として…自分は有田に住んでいますけれど、近所の窯跡にある陶片はほぼほぼ雑器なんですよね。陶片の皿とかになると、そのまんま今の生活に取り入れられるような、シンプルかつ無骨でかっこいい。まあ、茶陶唐津ってのが一方ではあって、それはブランドとして成立する可能性があるんですけど、自分の興味はもっぱら暮らしにそのまま入っていける古唐津の可能性に興味があるんです。

矢野:でも、天神森が小物成だ、今の暮らしに入るって言っても、やっぱりある程度その興味がある人に、であって、今の人たちにスッと入るものじゃないでしょ。

山本:落ちてる陶片で広い幅に入る必要がないというかで言うと、古い茶陶のとか、名品のも古い幅じゃないですよね?

矢野:だから、その亮平さんが言いたいようなのは、今の暮らしにスッと入るっていう表現をするけど、それは昔と今と同じようで同じではないよ、と言いたい。名品も雑器も一部でしかない。

山本:ただ茶陶の唐津ってのは限られた茶室とか限られた空間が想定されるでしょう。お茶の世界みたいなぁ。

村多:それを語りだすと止まらないよね(笑)。でね、雑器ってことで。ファッションで言うとデニム、チノパンは元々はワークウェアじゃないですか。堅牢。古唐津でいうところの雑器にあたるように思えるんです。デニムもチノパンも普段の生活に根付いてる。僕はそんな風に捉えているから山本さんの言う事がすごく理解できる。

村多正俊氏

山本:昭和の唐津は茶陶でブランディングしてたと思うんですけど、古唐津は大半が雑器じゃないですか。9割以上雑器なんじゃないかな。

村多:俺らが好きなの雑器なんだよね(笑)。

山本:茶陶というかそのものとしての良さを突き詰める一方の価値があってからこその雑器、という唐津の不思議さ…。それが魅力なのかな。

矢野: なんなんですかね。

村多:やっぱり、唐津は製法が分かっていないから、なんじゃないかな?でもだいぶわかるようにしちゃったよね、吉野さんのお父さんが、須藤さんが、そして梶原さんが。吉野さんも矢野さんも石井さんもどうしたらいいのかな?山本さんは普段の生活に根付くっていうところで、やっぱり雑器だろうと。雑器がキーワードでしょうね。僕はそう思うんですよ。

吉野:そう、唐津は雑器!

村多: 唐津は雑器…それをどうブランディングに落とし込んでいくか…。

矢野:雑器も唐津、名品も唐津。キーワードは雑器でも名品でもないですよね。キーワードは「唐津」でしょ。

吉野:「キャラツ」でしょ?(笑)。

矢野:自分はやっぱね、唐津の素材感が好き。

矢野:なんかね。唐津はやきもの中のやきもの、らしいっていうか。

村多:矢野さんはもう酔っぱらってるし(笑)…さっきから陶片で飲んでるんだよ。

矢野:これ飲めるんですよ、これ全然あの、大きいし。陶片とはいえ、1センチ弱ぐらい入って、やっぱ皮鯨一個欲しいんですよ。やっぱね、憧れなんですよ。

吉野:梶原さんが言ってたことで、そうだな、と思ったことがあるんですけど。「唐津はその辺に転がってる石と同じ存在。だから、その展示とかそういう個展とかやっても全くアピールしてこないけども、よ~く見て、自分の手元に置いているとすごくかわいくなる」って。唐津はまぁ、それかな、と。

矢野:でもほら、意識のあるやつはアピールしてるのもあるもん。朝鮮唐津とか。

村多:なんかね、みんな朝鮮唐津のこと悪口言うんだよね。キャッチーだから。

吉野:作りますよ、バリバリ作りますよ。

村多:かっこいいじゃん。時々いい徳利もあるし、伝世のでさ。でもそういうやつは、だいたい油徳利なんだよなぁ。でね、ブランディングってことに関して言うと…石井さんはいかがですか?

まとまらない、唐津

石井:波佐見と比較するのであれば、唐津はみんな「まとまらない」。長所でもあり、短所でもあるんですけど、唐津はまとまらないんです。

村多:ズバッときたね!

石井:僕は波佐見に住んでた事もあって、かの地の作陶家たちは自分たちでブランディングしないと食べていけない、生きていけない、という風に誰もが自覚されていたように感じていました。隣町である有田は「有田焼ですって言えば、もう問答無用で買う人がいる」と。波佐見はその有田の二の次じゃないけど「安いもの」、って捉えられていた。波佐見はおしゃれに敏感な層にターゲットを絞ってやっていこう、っていうのを強く意識していた。今、関東で波佐見がどう評価されているか、僕には分からないですけれども、僕がその波佐見に住んでた時はターゲットを強く意識されていて。例えば「ローマ字でHASAMI」、漢字の「波佐見」ではなく。

村多:まとまって、というところが大事ですね。その「チーム感」って大事ですよね。でね、外からね、東京出身である石井さんからすると唐津はバラバラだと。

石井:はい。

村多:そのバラバラを一つにまとまるっていうことの重要性みたいなものが、やっぱ今後は重要?

石井:例えでサッカーを入れてもいいですか?唐津はブラジルじゃないけど、作陶家がそれぞれ個人技でやっていくタイプ。「チームワークで唐津焼を良いほうにもっていく」というよりは、ずば抜けた個人技をみんな持っていて…。それは砂岩への解釈でもあり、粘土への解釈でもあり、窯で焼き締めるみたいな解釈でもあり。いろんなパターンでみんながそれぞれが己が信ずるものがある。波佐見や有田、さらに言えば他の窯業地と比較するとそれがとても強いんです。

村多:と、いうことはですよ…リーダーが1人出れば、全部がまとまってチームで勝てるってこと?それはすごく革新的な意見だと思うよ。唐津は「個」がすごく際立ってるエリアであって、石井さんは波佐見がまとまって勝った、という実体験を持ってるわけで。同じエリアですよね、肥前というくくりでは。そこに何か僕はあるような気がするんだけど、どうかな、矢野さんはどう考える?

矢野:石井の話の続きじゃないけど、いろんな先輩方、昭和で活躍した方々を見ると、やっぱり熱い方が多い気がする唐津。思いが強い方が多い。

村多:思いが強いとさ、相容れない人のことを時々避けるところはあるよね。ぶつかることも多い。それぐらい個の力が強い、ポテンシャルがあるからやっぱり今、石井さんが言われたようにまとまってね。4番打者は誰とか、フォワードは誰とかこう決めたらどうなんだろう?

石井:唐津はまとまる必要はないんですよ。飲食店も含めて、唐津は個人技みんな大好き、東京の人を口説けるハイクオリティーな人が唐津にはとても多くて。飲食も含めて、酒屋さん、燻製屋さんにしてもみんながよその人を口説けるレベルというか。僕はよその窯業地に行ったときに、飲食店から何から何まで口説けるレベルの産地ってとても少ないと思う。

村多:いつも思うんです。唐津は恵まれている。恵まれすぎててものがありすぎて選べないんだよね。それは伊万里も有田も。

山本:まとまらなくていいと思います。その…先ほどの吉野さんみたいな、この土地だけでやっていくとか。

村多:要所要所でまとまればいいんじゃない?

山本:僕は有田で、それは唐津の人たちなんで(笑)。端から見ているとその個性こそが素晴らしいのであって。

村多:そうか、それが須藤さんを生み、吉野さんを生み、さらには梶原さんを生んで、そのフォロワーたちがここにいるわけですよね。それはそれですごい理解できますね。で、そういう意見を聞いて矢野さんはどう思いますか?

矢野:自分らは…吉野さんも含め梶原さんだとか、古唐津があって…無庵(中里無庵)さんが出てきてリアカー引いて器を売って、(西岡)小十さんがいて、(中川)自然坊さんがいて、丸田(宗彦)さんがいて、(川上)清美さんがいて(西岡)良弘さんが出てきて、いろんな人たちが出てきて、それがあるからできること。諸先輩方の積み重ねがね。いま何をやるかというのは、それぞれの意見があって良しで、何をやっても良し。やきもので生きていけてるなんとか、それはありがたいことだし、それを今、それぞれにやらないといけないということを一生懸命考えて、次世代につなげないといけない。それをその個の力でやるもよし、唐津っていうことをもう1歩、今できる桃山復興じゃないけど、そういうことに一生懸命になるもよし。

矢野直人氏

村多:多様性の世であるから、やり方が自分と違っても批判するのではなくて…みんながみんな好きなようにやれ、と。でも思いはやっぱり「このやきものはかっこいいよね、いいよね、普段の生活になじむよね」っていうようなことをじんわり広めていく感じ。「これは違う」とか「あんたお前あり得ない」とかっていう空気はぶっちゃけあったわけじゃない?それをなくしてやっていく、ってことですかね?「ゆるいチーム感」なのかな?

石井:やっぱブラジルなんじゃないですか?あの南米的なノリっていうかもう。

吉野:なんかさっぱりわからないんだけど、個人プレー系とか言われてもね。

村多:櫨ノ谷…ここから始まったわけじゃん。唐津焼は砂岩で作る、っていう。

吉野:あのさっきの何ていうか現代に、その唐津焼をどう生かすかみたいなのは、唐津は素材感が強すぎるんですよね。で、それがその逆に言うと、無機質な、現代のマンションであったりっていうところに、実はぴったり合うんじゃないかと、皆さんそれに気づいてないんじゃないかと思って。

価値を知らしめる情報発信~伝えることの重要性

村多:コンテンツとしては時代性があるけれども、気づかせないと、言い換えれば…それを広めるっていうことがまだできてない、なるほどね。

吉野:何にもないところなんかそのうんとものすごくシンプルなところにポツンとあるっていうことがすごく実はまあ骨董的な意味もあるんですけど、そういういいっていうことにみんな気づいてない。

村多:気づかせるっていうこと。モノはいい。それを知らしめる…認知浸透させるって言うことが全て。

吉野:うんうんなんか自分がそのもっとこう、そういうところにあるとかっこいいって思うようなものを、もっと作ること。それをやっていきたいなと思うんですよね。

村多:で、今の皆さんの話を聞いてると、なんかそれは近い将来できそうな感じしますけどね。

山本:そう感じますね。自分もそう思ってました。唐津って今の時代に合っている…そう思う。

村多:実際、マンション住んでいる人間からすると素材感のあるものってのは合うと思うな。

矢野:合うとか合わないとか…なんですかね。

村多:気持ち良いって事かな?

吉野:合うとか合わないはその人それぞれだけど、それを購買につなげないといけないですから。そういう意味では、そういうとこに気づいてもらうことが必要。

矢野:どこにでも合いますよね、唐津。

吉野:こういうところでも合うけどね。

矢野:唐津は幅広いし、しっかりしたものもあれば、雑器的なのもあれば、楽しめる幅も広いし。

山本:その合う合わない、とかってすごいとても重要なキーワードで。

村多:では、唐津は時代性がある、やきもの。それを知らしめていく、っていうことが一番重要、というの今日の一つの結論?

山本:「伝える人」がいないと伝わらないよね。

村多:今は伝える手段があるし、それをうまく運用していく。モノは良いのだから。
「ゆるいチーム感」と、「おのおのがやりたいことをやる」、そしてそれを「ちゃんと伝える」の三つができれば今日集まった4人の作陶家さんは「唐津の良さをさらに広められる」っていうところですね。

矢野:そうです。うん。伝えます…伝えないとね。唐津が好きだから。

(構成・文 村多正俊、 写真 村多正俊、中井泰太郞、吉野敬子)

作陶家プロフィール

石井義久

石井義久(いしいよしひさ)・義久(よしひさ)窯 窯主
1989 東京都八王子市生まれ
2012 佐賀県立有田窯業大学卒業
2013 アメリカ ペンシルバニア州とメキシコ放浪
2014 唐津 矢野直人師事
2018 唐津相知にて独立

矢野直人

矢野直人(やのなおと)・殿山(とのやま)窯 窯主
1976 佐賀県唐津市生まれ
1994~98 アメリカ留学
2002 佐賀県有田窯業大学校 卒
2003 佐賀県立有田窯業大学校 嘱託講師
2008 韓国にて半年間作陶
2015 割竹式登り窯 築窯

山本亮平

山本亮平(やまもとりょうへい)・小物成(こものなり)窯 窯主
1972 東京都生まれ
1998 多摩美術大学絵画科 卒
2000 有田窯業大学校短期研修 修了
2006 有田町にて独立
2019 割竹式土窯 築窯

吉野敬子

吉野敬子(よしのけいこ)・櫨ノ谷(はぜのたに)窯 窯主
1972 佐賀県伊万里市生まれ
1996 父・吉野靖義の元、櫨ノ谷窯にて修行
2003 有田窯業大学校にてろくろの技術を学ぶ
2013 櫨ノ谷窯窯主となる


むらた・まさとし 1966年、東京都町田市生まれ。ポニーキャニオン・エリアアライアンス部長として映像や音楽を活用した各地の地域活性化事業をプロデュース。古唐津、佐賀の風土に魅せられ、WEB、雑誌、新聞等を通じてその魅力を発信している。古唐津研究交流会所属。世田谷区在住。

サカズキノ國
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