まもなく12月8日、太平洋戦争の開戦から80年の節目を迎える。なぜ、あの無謀な戦争に日本は突き進んだのだろうか。

 真珠湾攻撃の翌日、佐賀合同新聞は「政府と皇軍に激励電」の見出しで県議会が開戦を支持した動きを報じるとともに、「日米開戦の報に興奮と緊張のルツボと化していく街」と開戦に熱狂する市民の声を伝えている。

 元内閣官房副長官の古川貞二郎さん(87)=佐賀市大和町出身=が、佐賀の文化冊子『草茫々(くさぼうぼう)通信』に、当時を振り返った手記を寄せている。

 国民学校の1年生。8日の夕方は父親に連れられて提灯(ちょうちん)行列に参加し、一生懸命に日の丸の小旗を振る。「日本中が戦勝気分で沸きかえっていた。闇の中で溢(あふ)れかえった人人人の波。たくさんの提灯。天を突き上げる大歓声。私は父から離れないよう父の手をしっかり握りしめていた」

 日米の圧倒的な国力の差から目をそらして踏み切った戦争は、わずか4年後に悲劇的な敗戦を迎える。戦死した日本人は、軍人・軍属が約230万人、民間人が約80万人、合わせて約310万人に上る。古川さんは「戦争で亡くなった約三一〇万の日本人のうち、その九割が(昭和)一九年以降の戦争末期に集中している」と指摘しつつ、「日本という国は何事かを遂行する能力をすべて失ってしまっても止めることができず、無為無策のまま何事かを続行する性向を持った国ではないか」と問いかける。

 その問いに明確な答えはないのかもしれない。だが、私たちはこの先も問いかけ続けなければならない。

 戦地の兵士たちは苛烈な状況に放り込まれた。フィリピンやインドネシアで戦った佐賀市の太田清次さん(100歳)の体験談を今年、地元自治会前会長の松尾勝さん(78)が聞き取って小冊子にまとめている。

 「我が歩兵中隊は、暑さと赤道直下の病気マラリアと食事事情に苦しんだ」。帰国できたのは敗戦から1年半もたってから。その間も「マラリアと空腹のために、毎日数名の戦友が異土の土と化していった。ジャングルは大木の枝が爆撃のため払い落とされていた、だがその隙間からきらめく南十字星を拝むことが出来た。暑い中、飢えと病魔に悩まされた」。迎えの船を待つ間も、一つ、また一つと命が失われ続けたのだという。

 振り返れば今年は、戦争にまつわる証言にふれる機会が目立った。戦争体験者たちの、何としても自らの体験を伝えたいという強い願いの表れだろう。

 10月には、核兵器廃絶を訴え続けた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の坪井直(すなお)さんが亡くなった。「ネバーギブアップ」を信条に「ノーモアヒバクシャ」と訴え続けた生涯。2016年に現職の米大統領として初めて広島を訪れたオバマ氏と握手を交わした場面は、明るい未来への期待を抱かせた。

 だが、今、世界に目を向ければ、戦争の危うさは一段と高まっているようにさえ思える。戦争体験をどう引き継ぎ、未来の平和へ生かすか。開戦から80年。あの戦争の記憶を、次の世代に引き継ぐ努力は止めるわけにはいかない。(古賀史生)

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