毎朝「手鏡」欄を読みながら、人生の機微にふれる。忘れがたい投稿はいくつもあるが、何年か前に佐賀市の深川洋子さんから寄せられた一編は、今も胸に残っている。

 昭和40年代だろうか、深川さんの嫁入り道具を運び出す日のこと。庭先に近所の人たちも集まって、お祝いのなますや、かまぼこが配られた。当時は「箪笥(たんす)長持唄」で送り出すのが習わしだったが、歌える人がおらず、腕に覚えのある深川さんの父が急きょ歌うことになった。

 ♪ハァー箪笥ナーヨー 長持ゃさー…。

 秋空に美声が響いた。ところが2番まで歌ったところで、「もう歌えんばい」と父は絶句した。〈長女を嫁がせる花嫁の父としての心情だったのだろう〉と深川さんはつづっている。涙で声を詰まらせた男親の、さびしげな背中が目に浮かぶ。

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 近ごろはやりの若者言葉に「親ガチャ」というのがある。

 店先でよく見かける、カプセル入りのおもちゃの自販機は、お金を投じてハンドルをガチャガチャ回しても、ほしいものが出てくるわけではない。同じように人の一生も、「当たり」なのか「はずれ」なのか、本人の努力とは無関係に、どの親から生まれるかで運不運が決まってしまう…そんな意味らしい。

 自分の境遇を憂える若者の嘆きは、経済的な格差が広がる社会の裏返しなのだろうが、恵まれた環境に生まれることが、決して「当たり」とは限らない。

 女性皇族の結婚をめぐるゴシップをあれこれ眺めていると、もし別の人生だったら、もっと自然な祝福のされ方があったかもしれない、とも思う。遠い日の「長持唄」の父と娘のように、別れを惜しむささやかなひとときが与えられたろうに、と。

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 誰もが親も性別も容姿も生きる時代も場所も選ぶことはできない。

 先日、佐賀市の山あいの集落を訪ねた。「この辺は戸数も減ってしもうて…」。農作業中のおばあさんが話をしてくれた。生まれて嫁いで、88歳になる今までずっと、この村で暮らしてきた。「山の不自由さは、下(平野部)の人間にいくら言うてもわからん」と笑う。

 彼女のちょっとした自慢は「これまで一度も選挙は欠かしたことがない」。近所のお寺が投票所だった時代から憶えている。やがて地区に小さな公民館ができると、住民同士で投票の立ち合いを手伝った。市町村合併後、投票所は村に1カ所だけに減ったが、それでも自分の車で投票に行く。「自分たちが不自由に感じているから余計、気持ちが入る」

 人の世はたしかに不公平である。ただ、そんな「選べないもの」を嘆いても実りはない。可能性は「選ぶこと」からしか生まれない。山道を下りながらそう考えてみる。遠くに衆院選の街宣が聞こえた。(月1回掲載)

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