従来から取り組まれてきた男女平等、同権、共同参画の運動は、ともすれば男性と女性を対立するものとして捉えかねない面があります。実際、男性優位である現状においては女性の待遇を改善する必要があるため、男性は~/女性は~と主語を分けて考える文化の延長上にあるように見えます。しかし、これらの取り組みが本質的に目指しているところは、「性差に関係無くあらゆる人の権利が等しく、機会が均等であり、何をも強要されない社会」であり、男だから女だからという話ではありません。

 国連が2030年までに達成すべき目標として掲げるSDGs(持続可能な開発目標)では、17項目の目標の5つ目に「ジェンダー平等の実現」が挙げられています。ここで具体的なターゲットとされる9項目も、女性、女児を対象とする改善事項ですが、これも女性の人権被害が放置、黙認されている現状に基づくものであり、女性の権利だけを擁護するということではなく、性別による人権侵害を無くすためものです。

 近年、これまで蔑(ないがし)ろにされてきた性的少数者への理解が進む中で、そもそも男か女かという二極での考え方自体が乱暴な決めつけであったことに気づき、反省できる社会になりつつあります。どのようなセクシュアリティを持つ人であっても、それによって差別されることなく、等しく人権が保障されることを当たり前とせねばなりません。

 男らしさ・女らしさという表現も実は根拠の無いイメージ上の決めつけで、常識という思い込みとも言えます。突き詰めて考えると、本来どちらでもよいことばかりです。今ある性別イメージは文化として培われてきたものです。自らが伝統的な「らしさ」を大切にしたり、表現したりすることが否定されるのではありません。それは価値観の一つであって他者に押し付けることがあってはならないのです。

 同一化して何でも男女同じにしようということでもありません。身体的な男性、女性の構造や機能には違いがあります。しかしながら特性や好み、考え方などについては傾向があるにせよ性別で決定づけられるものではないのです。違いがあろうと無かろうと、男だから女だからという区別や分断、対立ではなく、考え方や生き方が性で制限されない社会の実現を願っています。(浄土真宗本願寺派僧侶・日本思春期学会理事 古川潤哉)

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