女優の十勝花子さん(1946~2016年)が「転ぶ老女」というエッセーを残している。野球が大好きで、よく通った神宮球場の近くで遭遇した出来事をつづっている◆いつものように球場へ出掛けた十勝さんは、転んで倒れ込んだ高齢の女性に出会った。近くにいた人も集まって助け起こすと、女性は何度もお礼を言って立ち去った。優しく言葉を掛ける人たちに「渡る世間は鬼ばかりじゃない」と感じたという◆その1週間後、十勝さんは同じ場所で、高齢女性が女子高生に助けられている場面に遭遇した。転んでいたのは、同じ女性だった。「なぜ同じ場所で。まさか…」。疑念を抱いた十勝さんは翌月、人が歩いてくるのに合わせて、女優でも感心するほど上手に転ぶ老女を目撃した◆わざと転んで、助けに集まった人たちの優しさに触れる。そうでもしなければ、心が保てない孤独の中で生きているのだろうか。何とも切なく、哀(かな)しい話である。十勝さんは老女の人生に思いをはせながら、「怒る気にはなりませんでした」と書いている◆「敬老の日」。明るい話題をと思いながら、転ぶ老女の姿が浮かんで消えない。いろんな苦労を重ね、長い人生を歩んできた人がわざと転ぶような社会にはしたくない。長寿を祝うだけでなく、高齢社会のありようを改めて考える日でもある。(知)

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