ゲームやアニメの登場人物、キャラクターにはその性格や能力を設定として表し、作品の上でその人物をわかりやすく特徴付けます。このようなキャラ設定を現実世界にも当てはめ、人物をわかりやすく単純化して捉えるというのはゲーム世代以前からよくあることでした。ただ、どちらかというと従来は、他者を属性分けしてレッテルを貼る類いのものが多く、偏見や差別の一環または助長するものが多かったように思います。今の子どもたちで言うと、明るく活発な人物や集まりを「陽キャ」、地味でおとなしい方を「陰キャ」と称する大ざっぱなくくりがあり、これも子どもたちの間では陽キャを良しとし、陰キャを忌む傾向で使うため、キャラ設定というよりも身分制度に近いものです。

 空気を読みすぎる現代におけるキャラ設定とは、他者にも当てはめますが、むしろ自分自身を定義づける、または、周囲から自分が定義づけられる、いわゆる「求められる振る舞い方の設定」と言えるかも知れません。自分の役割としての振る舞いが決まっていれば、会話の中や場面の流れの中で、間違った振る舞いをして空気を乱すことがなく安心できるため、お決まりの関係の中では便利に作用します。

 大人にもあるように、場によって振る舞い方を変えるのは処世術でもあり、子どもにとってももちろんそうなのですが、どうも近年の「自分らしさ」尊重が誤認されてキャラ設定と結びついているようないびつさを感じて気になっています。

 子どもたちは個性の尊重や自分らしさを見つけることを大切と学びます。これはとても大切なことではありますが、元は画一的な教育と評価の在り方、周囲の期待に応えた生き方の押し付けに対する問題意識から、それぞれが自分に合った生き方をしていいし、それが尊重されるということを目指したものだったはずです。そして、個性とは、そもそも一人一人が他者とは違う存在であることを指すものであって、とっぴな、特別な何者かになれというものとは違うはずです。しかしながら、今、子どもたちは、この自分らしさを早い段階で確立せねばならないという脅迫観念の中で自らをキャラ付けし、その設定に縛られて苦しんでいる場合があるように見えます。人間は設定を越えていけることを含め、元々の流れと願いの再確認が必要です。(浄土真宗本願寺派僧侶・日本思春期学会理事 古川潤哉)

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