碑の前で手を合わせ、黙とうをささげた樋口敏夫さん(左)、小野原康子さん=鹿島市の鹿島小学校

 長崎への原爆投下から76年となる9日、被爆者の救護所になった鹿島市の鹿島小学校を訪れる被爆者の姿があった。元鹿島市原爆被爆者の会副会長の樋口敏夫さん(81)。毎年夏に慰霊祭を執り行ってきたが、鹿島市の会は高齢などを理由に今年の春に解散した。式典はなかったが「足を運べるうちは手を合わせたい」と、原爆投下の時刻に黙とうをささげた。

 長崎市出身の樋口さんは5歳の時、爆心地から2・1キロの自宅で被爆した。「ピカッと光り、ドーンと響いた音は忘れない」。直前まで外で遊んでいて「父が昼飯の時間を間違え、母が迎えに来た。それで家に戻り、助かった」。父に背負われて山へ逃げたが、記憶は乏しい。後に父から聞いた話では「倒れた人たちが『水をください』と足をつかんだ。父は『堪忍してくれ』と言いながら走った」。

 鹿島市の被爆者の会は1960(昭和35)年に設立された。長崎との県境の団体で、多いときは120人以上の会員がいて、被爆者の福祉向上や核兵器廃絶運動に関わってきた。樋口さんらは長崎での平和祈念式典に参列してきたが、「地域でも手を合わせられる場所を」と2011年、会員らの寄付で鹿島小に碑を建てた。前身に当たる鹿島町国民学校は原爆投下後、講堂が救護所になった。列車で運ばれてきた負傷者の手当てが尽くされ、碑には不戦の思いを込めて「平和継承之礎」と刻んでいる。

 今年3月下旬、会員は20人ほどになり、最後の幹事会に集まったのは4人。樋口さんは「寂しい思いはあったけれど、会員は減っていくばかり。運営ができなくなった」と振り返る。「ゆくゆくは語り部を務めた被爆者がいなくなる。戦争はあってはならない。この願いを次の世代に託したい」。解散前の3月23日付で市役所に提出した書面には「小中学校などで学ぶ機会をつくってほしい」と会員一同の願いをつづった。

 被爆者健康手帳を持つ県内在住の被爆者は3月末現在723人で、平均年齢は86・02歳。地域の被爆者団体は解散が相次ぎ、県原爆被害者団体協議会(県被団協)などによると、鳥栖・三養基地区の支部も3月末で解散した。活動が確認できるのは伊万里・有田地区、佐賀、神埼、武雄、白石の5団体になっている。

 今年1月、「ヒバクシャの受け入れ難い苦しみに留意する」と明記した核兵器禁止条約が発効したが、核保有国や日本は参加しておらず、日本政府内での議論は停滞したままだ。

 被爆2世らでつくる「佐賀県原爆被害者2・3世の会」は「被爆国である日本が参加していない現状は残念でならない」と指摘、全国的な署名活動に協力し、政府に条約への署名、批准を求めている。さらに被爆を含む戦時体験の継承に向け「日記や資料、証言などをできる限り集め、戦争の惨禍を継承していかなければ」と広く呼び掛けている。(中島幸毅、岩本大志)