基山町内から基肄(椽)城跡を望む。奥に見える山の尾根の中央から右にかけて史跡が残る=基山町

 百済再興をかけた日本・百済連合軍と、唐・新羅連合軍による海戦、白村江(はくすきのえ)=朝鮮半島南西部=の戦で惨敗し、敗走を余儀なくされた日本は、唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えるため、急きょ国内の防備を強化する必要に迫られた。

 奈良時代の歴史書で、日本最古の勅撰の歴史書とされる『日本書紀』は、次のように記している。

 「対馬嶋、壱岐嶋、筑紫国等に防と烽とを置く。また、筑紫に大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ、名付けて水城(みずき)という。

 665年8月、達率憶礼福留(だちそちおくらいふくる)・達率四日福夫(しひふくぶ)を筑紫國に遣わして大野及び椽(き)二城を築かしむ」

 このように日本書紀には664年、対馬、壱岐、筑紫国に防人(さきもり)と烽火(のろし)を置くとともに、大宰府防衛のため水城(福岡県太宰府市)の大堤を造営した。

 翌665年には大野城(福岡県大野城市ほか)と椽(=基肄)城(基山町・福岡県筑紫野市)を築城し、城づくりの指揮を執った百済王室の第2位の高官、達率2人が記されている。

 博多湾からの侵攻に備えて、大宰府の前面に水城の大堤と大野城を配し、有明海からの侵入に対して基肄(椽)城を築いたとみられる。(地域リポーター・久保山正和=基山町小倉)

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