いじめられる側にも原因があるという論調を見かけることがありますが、その論理はいじめを容認するものであり危険なものです。そもそも、原因があったとしていじめて良いわけがありませんし、「気に入らない」とか「人と違う」とか「目立つ」とか、そういうことを原因として認めるわけにはいきません。

 にもかかわらず、被害者に向かって原因はあなたにもあるというメッセージを発してしまう大人が後を絶たず、これではいじめを無くすことは不可能です。いじめられないように工夫せよ、負けるなというつもりかもしれませんが、極論するといじめられないための最善の策は常にいじめる側に回ることです。いじめられないために多数派工作を駆使していじめる側に回る者が多いからいじめがなくならないのであって、いじめられないようにせよとの論理ではいじめはなくなりません。いじめる側が完全に悪いという一貫した意思表示をみんなが続けなくてはなりません。

 学校でのいじめは軽く見られがちですが、被害者にとっては一生に関わる問題です。消しゴムを隠されるところから既に窃盗ですし、脅迫、傷害、中傷、名誉毀損と本来なんらかの法的責任を負うものばかりですし、存在を否定される無視に関しては殺人に等しいとすら感じます。罰されるのは加害者側であるべきですが、実際には被害者側だけが対応を余儀なくされる現状は異常だと認識すべきです。

 処罰の対象としていないのは、少年法の問題以前に、学校が教育機関であり、失敗や過ちを正す場であるからと言えます。であるならばなおのこと加害者側に責任の自覚を求め、またその原因に目を向ける必要があります。いじめの場合、原因は被害者にはありません。加害者側に何かしらの原因があると考えるべきでしょう。相手の気持ちを理解できない、他者の価値観を受け容れられない、力や圧によってしか関係性を築けない、多数派側に居ないと不安、家庭で圧迫があり他者にはけ口を求めるなど、多くの要素が見えるはずです。これらによっていじめが容認されてはなりませんが、いじめる側も身を守る、バランスをとるためにそうなっていると考えるとケアが必要です。

 社会として考えた際に不適格、不適応なのはいじめる側であって、被害者側ではありません。(浄土真宗本願寺派僧侶・日本思春期学会理事 古川潤哉)

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