東唐津の「銀河食堂の夜」

 唐津城の建つ満島山から舞鶴橋を渡ると、東唐津に入ります。このあたりは古くは満島とも水島とも、源氏物語には浮島とも呼ばれ、砂州であったことが分かります。満島にはご飯処(どころ)「銀河食堂の夜」があります。明治14(1881)年に建てられた町家は店主・金丸千寿沙(かなまる・ちずさ)さんの曾祖母の家で、かつて網屋という屋号で廻船(かいせん)問屋を営んでいました。

 江戸時代、唐津藩の物流の大動脈であった松浦川河口にある満島には領内に出入りする船や積荷を検査し徴税を行う満島番所、参勤の際、藩主が大小庄屋を引見した平野屋もありました。「諸国湊番付」の前頭には肥前名護屋の名が、30位以内に肥前唐津の名が出てきます。産物の集散地として多くの問屋と居心地の良い船宿のある港だったのでしょう。

 唐津領内の民間船は穀船と呼ばれ、多くは呼子港に入っていました。権現丸など数隻の船を持っていた網屋は弁才船(べざいせん)に鯨油や和紙、水産物などを積んで大阪に向かい、帰りは木綿や煙草などを積んで帰ったのでしょう。天保4(1833)年、初代網屋文蔵の船は鞆の浦で転覆し阿弥陀寺に埋葬されています。海運とは常に命懸けでした。

 江戸時代末期、網屋は石炭問屋でにぎわう満島で石炭の輸送を始めます。薩摩や肥後が採掘した厳木や相知の石炭を川舟に積んでは松浦川を下り川岸から荷を揚げます。高島に蒸気船が到着すると石炭を積み替えに行きました。明治32(1899)年、唐津線が大島港へと入るまでこのにぎわいは続きました。

文・菊池典子

絵・菊池郁夫

(NPOからつヘリテージ機構)

このエントリーをはてなブックマークに追加