作家の三浦綾子さんに『尾灯』という短編がある。役所を定年退職して民間企業に再就職している男性が届いた年賀状を見て、かつての部下と長男家族に会いに行こうと思い立つ◆男性は久々の再会を楽しみに旅立つが、部下からも長男家族からも冷ややかな対応を受ける。泊まりがけのつもりだった旅は日帰りとなり、終列車にも乗り遅れてしまう。列車の赤い尾灯が遠ざかっていくラストが何とも切ない◆定年後の悲哀がにじむ作品だが、いま定年後の生き方を指南する「定年本」が続々と出版されている。人生100年時代といわれる中、定年後の道しるべやノウハウを求める人たちの不安が背景にあるという◆『「定年後」のつくり方』の著者・得丸英司さんは「会社という大樹に寄りかかっていた人ほど、それがなくなった時の精神的な落差は大きい」と指摘する。所属も、肩書も、名刺もない。一人の人間として生きていくのは想像以上に寂しく、孤独なのかもしれない◆『尾灯』の男性はかつての部下に会議が入ったとうその芝居までされて、夜の約束を断られる。「何が一杯やるのを楽しみにしてますだ」。男性は心の中でののしりながら、人間はこんな実のない言葉のやりとりの中で生きているのではないかと思う。定年後も大事だが、まずはきょう一日の誠実な付き合いだろう。(知)

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