新聞協会賞を受賞した大火砕流の写真パネルの前で、30年を振り返る眞子生次さん=三養基郡みやき町の自宅

 三養基郡みやき町の眞子生次さん(74)は30年前、読売新聞のカメラマンとして雲仙・普賢岳(長崎県)の大火砕流の現場にいた。多くの犠牲者が出た報道陣の撮影拠点「定点」から少し離れた場所にいて、難を逃れた。その定点の周辺が、災害の教訓を継承して犠牲者を追悼する「被災遺構」に生まれ変わり、時の流れを感じている。

 佐賀支局の嘱託カメラマンだった眞子さんは1991年、最初に火砕流が発生した5月下旬に現地入り。6月3日は定点から600メートル離れた場所にいた。午後4時8分、山の斜面を下るだけのそれまでの火砕流と異なり、地鳴りとともに噴煙が迫ってきた。警戒していた消防団員がこちらに逃げてくる。その場を離れる直前、とっさにシャッターを切り、その1枚で新聞協会賞を受賞した。

 30分ほどして熱風の中を戻ると、一帯は灰色になっていた。写真に収めた家々は焼けていた。定点にいた同僚の無線はつながらない。「3カ所の撮影ポイントを輪番で回していて、前日は私が定点にいた。こんなに火砕流が恐ろしいとは誰も理解していなかった」

 前線で取材した同僚たちと十数年前まで定点を慰霊で訪れていた。カヤが茂り、荒れ放題になっていた。被災車両が掘り起こされるなど、一帯が今年3月に整備されたと報道で知った。

 「地元の消防団員が私たちを守るために犠牲になり、遺族の反発もあって放置されていたと聞いていた。そんな感情が少しでも和らいで『後世に残さないと』と思ってもらえたのなら幸いだ」。定点を再び訪れたいと思っている。(宮﨑勝)

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