長崎県の雲仙・普賢岳で犠牲者43人を出した1991年6月3日の火砕流から30年になる。大惨事は、火山の被害軽減には気象庁や研究者、自治体、住民の意思疎通が不可欠という教訓を突き付けた。原点を再確認し、今後に生かしたい。

 大火砕流は突然発生したわけではない。溶岩ドームの成長や斜面崩落に伴い、次第に火砕流の到達距離が伸びていた。研究者は警告していたが、報道陣などが避難勧告の出た地域で被災した。規制する島原市や報道陣の危機感は薄かった。

 防災に向けた連携が機能しない例は以降も続いた。2000年の伊豆諸島・三宅島噴火は噴石が広範囲に降る大規模噴火で島民の危機感が高まっても、気象庁や火山噴火予知連絡会がしばらく危険を明言せず、全島避難の決断が遅れた。

 火山で戦後最悪の犠牲者を出した14年の御嶽山噴火は、事前に火山性地震の増加を気象庁が把握しながら適切にその異常を伝えられず、情報の出し方が問われた。

 異変をとらえるだけではなく、気象庁や研究者が自治体に伝え、自治体の規制に従って住民が避難を完了して初めて犠牲者ゼロは実現する。

 それには普段から関係者が「顔が見える関係」を構築することだ。御嶽山噴火を受けた法改正で、自治体などで構成する各地の火山防災協議会に研究者が入るようになった。これを意思疎通の土台にしてほしい。

 07年から気象庁は、火山の状況に応じて防災対応を定めた「噴火警戒レベル」の運用を始めた。自治体は対処しやすくなったはずだ。しかし、御嶽山では最も低い「レベル1」に据え置いたまま噴火を迎えてしまった。決して万能ではないことを理解する必要がある。

 普賢岳では、地元に常駐して地形や地名を熟知する研究者が自治体に繰り返し助言をした。難しい火山現象を分かりやすく伝える研究者は依然として重要な存在だ。

 普賢岳の噴火は約5年に及んだ。避難が長期化する中、困窮した住民を支えた画期的な制度が生まれ、その後の被災地でも導入された。一連の災害は復興面でも貴重な遺産を残した。

 特に長崎県が設けた「雲仙岳災害対策基金」は評価が高い。貸付金や義援金などを積み立て、運用して生じる利息を使って、きめ細かな被災者支援を実施した。

 国の「自然災害で個人の財産は補償しない」という方針がある中で、県が知恵を絞った。財団法人としての基金という形でワンクッション置くことにより、既存の行政予算では難しい個人支援を可能にした。

 農作業ができない農家への支援や、住宅再建費用を助成するなど地元のニーズを反映させた。基金は1995年の阪神大震災や2004年の新潟県中越地震などでも導入されており、恒久的な制度に発展してほしい。

 雲仙岳災害対策基金が個人財産を支援した実績は、阪神大震災での「住宅の再建は公的な課題」という議論につながった。そして最大300万円を支給する被災者生活再建支援法が誕生した。

 災害の規模が大きくなるほど、都道府県が果たすべき役割は大きい。市町村の自主性を尊重しながら、何が被災地に足りないのか全体を見て検討する。難問に挑んだ長崎県から学ぶべき点は今も多い。(共同通信・所沢新一郎)

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