5世紀頃の朝鮮半島(基山町『ふるさと基山の歴史』より)

 基肄(きい)(椽)城が築造された背景には、当時の朝鮮半島の状況が関係している。5世紀頃の朝鮮半島は、百済(半島南西部)、高句麗(半島北部)、新羅(半島南東部)の3カ国、及び伽耶と呼ばれる地域に諸小国が存在していた。3カ国は互いに勢力を競い562年、新羅は伽耶を併合する。

 660年、唐(中国の王朝名)・新羅連合軍は、倭(中国・朝鮮で用いられた日本の古称)と同盟関係にあった百済を攻め、百済国の義慈王は投降し、百済国は滅亡した。

 百済の高官は、百済復興を図るため日本に使者を送り、当時、日本に滞在した王子(余豊璋・扶余豊・翹岐・糺解などと称された人物)の帰還と日本からの援軍を要請する。

 百済の求めを受け、第37代天皇の斉明天皇(594-661年)は、自ら救援軍を率いて九州に下るが、救援軍進発直前の661年、朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉郡杷木町)で崩御になる。

 朝鮮に渡った日本軍は663年、百済再興軍と共に唐・新羅連合軍と対峙。唐軍は戦船多数を率いて白村江に迎える。唐軍の左右より船をはさみ戦うという戦法に日本軍は負け続け、多くの者が海に落ちて溺れ死んだという。

 他方、百済復興軍内では鬼室福信が扶余豊に殺されるなど内部の確執があり、復興軍と日本軍の連携不足、作戦ミスなどが重なったことなどから日本軍は大敗した。

(地域リポーター・久保山正和=基山町小倉)

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