「みんな仲良く」と簡単に言いますが、大人はこれを難しいこととわかった上で子どもたちに示します。それでいて、仲良くとはどういうことかという定義は伝えません。一方、子どもは最初本気で仲良くしようとし、うまくいかないと自分が悪いと感じて負担となり、叱られないように表面を装います。いじめる側もいじめられる側も発覚しないよう装う姿は大人が言う仲の良い状態と言えてしまうかもしれません。大人は表立って問題が起こらないことを求めているだけだと子どもたちも徐々に見抜きます。

 大人に叱られるのは面倒なので、意見の違いや問題提起を同調圧で封じ込め、手に負えない者は浮かせて本人だけが叱られる状況をつくることで仲の良さを装うことになります。以前と比べると暴力的なわかりやすい非行は激減していて、一見すると仲が良く見えるため学校も明確に注意するきっかけがつかみにくく苦慮している状況です。

 子どもどうしの同調圧、いわゆる「空気」によって作られる表面的な仲の良さは、その空気に逆らわなければ自分の身は保たれ、波風も立たないため多くの人にとっては安心で楽です。しかし、空気に合わせることができない、難しい人にとっては理不尽で苦痛でマイナスです。

 数の力で無言の内に我慢、服従、孤立をつくり出し、均質化で安定を図るという手法は、本来大人が教えたい集団生活とは違うもののはずですが、今の学校や社会の状況では子どもたちは自らこれを身につけます。

 一定の学力と教養は必要ですが、能力や発想、考え方を均質化する必要はなく、指示を受けて均質に働くだけの人間の量産は社会の求めとも既にずれています。

 学ぶべき集団生活とは、さまざまな特徴を持つ個々人がそれぞれにうまく補い合い、1人でするよりも良い結果を出せる方法ではないでしょうか。学校を一歩出れば年齢、世代はもちろん、人種や言語、信仰や文化背景が全く違う人たちとも共生していくわけですから、均質化を目指すやり方には限界があり、結果的に分断をつくってしまいます。

 時代、社会の要請によって均質化を目指す学校制度が成立したのですから、今は大人一人一人がそうでない方法に目を向け、社会として求め、脱均質化に向かうべき時だと感じます。(浄土真宗本願寺派僧侶・日本思春期学会理事 古川潤哉)

このエントリーをはてなブックマークに追加