無地唐津碗形盃(むじからつわんなりはい) (秦秀雄 旧蔵) 高さ4.4センチ、口径7.4センチ、高台径3.5センチ 江戸初期

無地唐津碗形盃(むじからつわんなりはい)

 古着が好きだ。ファッションに目覚めてからずっと追いかけている。特にデニム。リーヴァイス501の1960年代~70年代に生産された、いわゆるヴィンテージというもの。インディゴ染めされた生地が穿(は)き古されて色落ちしている感じが琴線に触れる。学生の時分、古着屋さんから入荷日を聞き出しては、なけなしのバイト代を握りしめ朝一で店前に並び、開店と同時に買い漁(あさ)った。ようやく手に入れた希少なデニムであっても特別扱いせず、ガンガン穿いてガシガシ洗う、そういう感じで向き合ってきた。堅牢な501とはいえ、世に出でて50年以上たっている古着ゆえ膝やヒップ、そして裾はダメージだらけだ。継ぎはぎ補修し、ボロボロになるまで穿き倒されたデニムが今もクローゼットに何本かある。私の大切な宝物だ。

 そんな素地があるからか、私は発掘モノだとか呼び継ぎとかいうものが全くもって気にならない。呼び継ぎ、というのは陶磁器の破損部位を別のかけらをあて補修することを言うのだが、ある意味アクセントにもなる半面、嫌う向きも多い。私が最初に買った古唐津は発掘、呼び継ぎの無地唐津の山盃だった。大きな補修部位もそれなりに味があったので「この呼び継ぎが見どころ。大胆でいいんだ」などと楽しんでいた。

見込

 

高台

 

 戦後間もない頃の骨董(こっとう)と言えば、古唐津は伝世でなければ、という風であったよう。伝世とはそれが作られた当時から使用され今にいたるものを言う。茶道ではそれを尊び、伝世の古唐津茶碗は茶人垂涎(すいぜん)の的、であった。そんな時代ゆえ、発掘ものは全くもって相手にされない代物だったが、それらに目を利かせ、愛(め)で、価値を見いだし発信したのが秦(はた)秀雄(1898~1980年)であった。日本民芸館の柳宗悦との出会い、そして交流。その後、北大路魯山人の招きを受け「星ヶ岡茶寮」の支配人として器や骨董への審美眼を磨き、さらに食への知見を深めた。この2人に接したことにより青山二郎を知り、小林秀雄、白洲正子と親しく交わるように。井伏鱒二が秦さんをモデルとした小説「珍品堂主人」を発表すると、古美術に執筆依頼がもたらされるようになり、これらに応じてエッセイや評論を発表するようになった。白黒をはっきりさせ、思いの丈をぶちまける…既存の価値観への、ある種のアンチテーゼとも捉えられる文体は多くの敵をつくったのでは、と諸先輩方は言う。「風評なんぞ」と怯(ひる)まずに発信し続けた秦さんの姿勢、見いだしたモノ、そして著作に私はたまらなく魅(ひ)かれる。

 過日、そんな秦さんの旧蔵の盃で呑(の)ませていただく機会を得た。無地唐津の碗形盃(わんなりはい)。還元炎焼成で釉薬は土灰釉。グリッとした高台、お酒を注ぐと清涼な小川のような表情になる広い見込にちょこっと火間(釉薬の掛け外し)もあったり。口辺4分の1ほどの呼び継ぎを忘れさせるダイナミックな石はぜ。手取り感もよく、親指、人差し指、中指をその口辺にそえるとピタっ、となじむ。言わずもがな使い心地が良い、見どころ満載な盃だ。秦さんのモノ選びが集約されたようなそれを、場を同じくした白洲信哉さんが「う~ん、珍品堂好み」と唸(うな)りながら、何度も何度も酒を呑み干す姿がとても印象的だった(秦秀雄の号は“珍品堂”と言った)。

 フロンティアは得てして叩(たた)かれるもの。だが、その存在ゆえにイノヴェーションは起こる。秦さんはまさに骨董フロンティアであった。それまでの流れ…茶道一辺倒の古陶磁への向き合いに一石を投じたことは紛れもない事実である。発掘だろうと、呼び継ぎであろうと、はたまた伝世であろうと良いものは良い…自分の価値判断をもって言い切る大切さを秦さんは著作で今も教えてくれる。

解説

 久しぶりに実家に泊まりました。両親との近況報告やじんわりしみいる家庭料理に心がほぐれ、また、その至近の里山の、生命力あふれる新緑に触れコロナ禍による憂さが晴れました。第四波、なんてことが騒がれるようになりましたが正しく恐れ、日々を過ごしていこうと思っています。

 さて今回は珍品堂こと秦秀雄さん旧蔵の無地唐津碗形盃をご紹介しました。「どうしてこんな風になったんだろう?」とまじまじ見てしまう…そんな石はぜがボディにあります(石はぜ、とは素地の中にあった小石が焼成時に顔を出してしまうもの。やきもの好きからは見どころの一つとされています)。

無地唐津碗形盃(むじからつわんなりはい) (秦秀雄 旧蔵) 高さ4.4センチ、口径7.4センチ、高台径3.5センチ 江戸初期

 この盃には石はぜ以外にも削りのキリリとした竹の節高台や見込の絶妙な部位に火間(釉薬の掛け外れた部位)があったりと、「さすが、秦さんのセレクトだなぁ」とやきもん好きを唸らせる魅力にあふれています。釉薬は器胎を作るタイミングで生じた砂岩由来のうわずみと草木の灰を混ぜて作った、いわゆる土灰釉(この盃の釉薬は砂岩分がいくぶん多めの調合のように思えます)。

 発掘ものでありながら秦さんが晩酌時にずいぶんと愛玩されていたと見えて、見込全体に細やかな貫入が入り、なんとも良い味が付いています。本紙にも記しましたが場を同じくしていた文筆家の白洲信哉さんが「やぁ~これは珍品堂好みだなぁ、こんな盃はないよ、これは良いよ!」とお酒を干すごとに感嘆していたのがとても印象的でした…で、この盃がどこで作られたか? なのですが私は佐賀県西松浦郡有田町や長崎県佐世保市に散在する古唐津系を焼いていた古窯、いわゆる平戸系のどこかの窯では、と思っています(葭之本=よしのもと=あたりではないか、と推察しています)。

葭之本古窯

 その事由は細やかな胎土にあります。有田町や佐世保市三河内で焼かれた古唐津はみなこのように鉄分が少なく、きめ細やかな胎土で作陶されています。胎土は同地域の砂岩によるもの。松浦系道園あたりで焼かれていたものと遜色のない土味は実に好ましいものです。釉薬も平戸系に多い、砂岩分の多いものである、というのもその事由の一つです。

 お話しを秦秀雄さんに移しましょう。

秦秀雄さん(写真提供:秦笑一氏)

 秦さんは福井県のご出身。学校教師の傍ら編集者となり、柳宗悦、北大路魯山人らに出会い、魯山人の招きを受け星ヶ丘茶寮で協働後、料理屋、骨董屋などを営みながら、骨董に関する著作を多く発表した、言うなれば昭和の数奇者でした。肥前陶磁、とりわけ古唐津と初期伊万里を愛し、伝世品はもちろん、発掘のぶち割れものでも魅力があれば積極的に採り上げ、その真価を世に問いかけておられました。唐津や有田の現場を何度も訪れていた「現場系」であったことも好ましいところです。昭和の古伊万里ブームも彼がその火付け役であったこともここに記しておきます。

 著作の文体は時に刃のようにするどく、既成価値に疑問を投げかけ、氏一流のロジックをもって本来あるべき姿を提示する…そんな秦さんの著作は今もフレッシュで読む度に発見があり、生活全般に対する美意識や価値観も私を惹きつけてやみません。人となりについて、骨董関連の書物では「毀誉褒貶(きよほうへん)な人であった」といった捉えられ方をしているようですが、機会を得るごとに生前を知る方々にお話しを聞いていますが、未だ持ってネガティヴなものにここまで出くわしたことがありません。いずれにせよ、肥前陶磁を語るに欠くことができない“巨人”であることは間違いないでしょう。

 個人的に秦さんの発信手法に興味があります。それは令和の世に実にマッチしていて「今の世に在って、SNSを駆使していたら間違いなくアイコンになっているだろうなぁ」などと著作を読むごとに感じたり。振り返って現在の骨董シーンを考えてみるに秦さんのようなインフルエンサーがいてくれたらなぁ、と最近とみに思うのです。

(解説・写真 村多正俊)

サカズキノ國
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