新学期を迎え、登校する子どもたちと元気にあいさつを交わす飯盛康登さん=4月6日、多久市の東原庠舎中央校前

東原庠舎中央校の子どもたちから贈られた手紙を手に、交通安全指導員を務めた50年間を振り返る藤本昇さん=多久市北多久町

 多久市で交通安全指導員を50年間務めてきた北多久町の藤本昇さん(93)と飯盛康登(やすと)さん(80)が、3月末で勇退した。2人とも市の交通安全指導員制度が創設された時に引き受けた。半世紀にわたって児童生徒たちが事故に遭わないよう毎朝、通学路に立って見守り続けてきた。

 2人が指導員になったのはマイカーブームの最盛期だった1971年4月。自動車の保有台数が急増する一方、県内の交通事故の死者数は年間で最多の180人に上り、「交通戦争」とも呼ばれる社会問題になっていた。

 藤本さんが指導員になったのは、長女の同級生が登園中に車にはねられて亡くなったことがきっかけだった。「自分の子どもは自分で守る」。自主的に自宅近くの交差点に立ち、指導員制度の開始とともに委嘱を受けた。

 市内にあった三菱鉱山の古賀山炭鉱に勤め、閉山後の69年から電気店を営んだ藤本さん。現在の義務教育学校・東原庠舎(とうげんしょうしゃ)中央校に通う子どもたちを見守ってきた。「街頭に立ち始めてから1度も事故が起きなかったことが一番の誇り」と話す。通学途中の小学生から感謝の手紙をもらったこともあったといい、「本当にうれしかった」と振り返った。

 こんにゃくの製造・卸売業を営む飯盛さんは、自動車の運転技術を競う大会で優勝したことなどをきっかけに指導員になった。市内で初めて押しボタン式信号機が設置された自宅近くの県道や交差点に立ち、学校などで行われる交通安全教室にも率先して参加した。

 「体力的にもここが潮時かと。80歳を節目に若手に道を譲ろうと思った」と飯盛さん。「一番の理解者だった妻をはじめ、丈夫な体に育ててくれた親のおかげ」と感謝する。

 飯盛さんは、指導員は“卒業”したものの、多久地区交通安全協会の副会長の任期があと1年残っている。新学期が始まった6日も協会の活動で地元の義務教育学校の校門に立ち、「おはよう」「グッドモーニング」。子どもたちと笑顔であいさつを交わした。(谷口大輔)

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