脳卒中の休職から職場復帰した有明抄の(義)こと、中島義彦論説委員=佐賀新聞社

 その時、自分の体に何か「異変」が生じたのは分かった。しかし、それが何なのか全く見当がつかず、突然の不調にどうしていいか分からなかった。ちょうど6年前のきょう、2015年4月7日、「私」は脳出血で倒れた―。

 その日の朝、私はいつも通り午前6時半に起床。コーヒーだけの朝食を済ませ、出勤準備で自室に向かう途中、用便を済ませた。トイレから出た後、頭に重さを感じた。2階の自室でワイシャツに袖を通そうとした時、目まいを覚え、慌てて床に座り込んだ。

 しばらくすると目まいは去った。しかし、あぐら座りの上体が自分の意思とは無関係に、勝手に後方に倒れてしまう。目まいとは違った。何度体勢を立て直しても同じ。上体をまっすぐできず、パニックになりかけた。

 「落ち着け」と自分に言い聞かせる。「この状態では車の運転は無理」。既に妻は出勤した後。子どもたちも新学期が始まり、登校していた。

 「風邪のひき始めだろう。しばらくしたら治るかも」。そう考え、寝室のベッドに行き、横になった。

 この時、家には老齢の父母がいた。父に病院に連れて行ってもらうのが最善だろう。会社には、後で電話を入れるしかない。

 気持ちが落ち着き、あおむけから左向きになった。しばらくすると、腰の辺りに何か冷たい石のようなものが当たっていることに気付いた。

 ベッドの上になぜ石があるのだろう。そう思い、右手で、その正体を確かめる。その正体が分かった時、ぞっとした。

 「冷たい石のようなもの」は自分の左こぶしだった。自分の手とは思えなかった。

 この瞬間、迷いが消えた。枕元に置いていたスマホを手に取ると、妻の携帯に電話する。数回のコールでつながった。

 「もしもし」。けげんそうな声に「体がおかしか。言うことをきかん」とだけ伝えた。妻は「じっとしてて、すぐに救急車を呼ぶから」。こうなる展開が読めたから、妻への電話は最終手段と思っていた。ただ、これまで119番通報の経験は一度もなく、自ら救急車を呼ぶのは勇気がいる。SOSを発信できる相手がいて、その手段があってよかったと思う。スマホや携帯は身近な場所に置いておいた方がいい。

 実際は、私の父に妻が電話をかけ、父が救急車を呼んだ。

 約15分後、救急車のサイレンが聞こえ始めた。

◇    ◇

 3大疾患といわれる「がん」「心筋梗塞」、「脳卒中」。その中でも、脳出血や脳梗塞の脳卒中は重い後遺症が残り、不自由な生活を余儀なくされるケースが多い。脳卒中を患いながら、何とか社会復帰した「私」が、発症からこれまでの道のりを振り返る。(論説委員・中島義彦が担当します)

【連載開始に当たって】
 昨年4月、論説委員会に異動し、有明抄を担当する一人となった(義)です。1987年に佐賀新聞社に入社し、スポーツ担当や多久小城支局など編集現場を中心に働いてきました。
 今回の連載は、健康管理もできなかった自らの恥をさらすようで迷いもあったのですが、脳出血という大きな病気から社会復帰できた歩みを紹介することは決して無駄ではないだろうし、誰か一人の心にでも届けばと、思い立ちました。毎週水曜日の紙面に掲載予定です。お付き合いください。(義)

このエントリーをはてなブックマークに追加