柔道教室で子どもたちに指導する古賀稔彦さん=2000年6月10日、佐賀市の県総合体育館

 佐賀県が誇る「平成のスター」だった。古賀稔彦さん(三養基郡みやき町出身)は、豪快な一本背負いとともに国民の記憶に名を刻んだ。講道館柔道の創設者、嘉納治五郎の言葉「精力善用、自他共栄」を好み、神奈川県川崎市内の道場「古賀塾」に掲げた。「『人として生まれたからには、人の役に立ちなさい』という意味です」。嘉納の理念をかみ砕き、謙虚な「求道者」として実践し続けた。

 佐賀県で過ごした幼少時代は「人前に出ると赤面して、話すこともできない気弱な性格」だった。小学生のころ、初めての試合で負け、悔し涙が止まらなかった。「こんな感情が自分にあるのか」。以来、勝ちたいという一心で、二つ上の兄・元博さんと練習の虫になった。勝負の世界で、気弱な少年はたくましい柔道家へと成長していった。

 華々しい選手生活の中でも印象深いのは、1992年のバルセロナ五輪。24歳の若さで日本選手団の主将に抜てきされた。開幕直前、「講道学舎」の後輩、吉田秀彦との練習中に左膝靱帯じんたいを負傷した。自力で歩けないほどの大けがで、痛み止めを打ちながら挑んだ。選手村のテレビで田村亮子(現姓谷)と吉田の金メダルを見届けると、「明日はおれが金を取る」と明るく言った。吉田は「古賀さんが優勝しないと、僕の金メダルは半分」と気にしていたという。

 決勝は死闘の末の判定勝ちだった。2019年11月の取材に「畳の上で無欲になっていた」と語った。持ち前の精神力で大一番を平常心で迎えた。「平成の三四郎」は試合後、吉田と抱き合って号泣した。

 情に厚く、行動する人だった。11年3月の東日本大震災では、被災地の柔道場を回った。津波で全壊した岩手県大船渡市の柔道場「時習館」の復旧に奔走した。西松浦郡有田町の有田中学校が柔道場の畳を交換すると知人から聞き、古い畳を譲ってほしいと依頼した。町は畳処分費を運搬費に変更して100枚送った。「本当にありがたかった」。自分を育てた柔道への恩返しが原動力だった。

 私塾では、自身が経験したスパルタ的な指導とは距離を置き、柔道を通じた人間育成を重視した。子どもたちには「強くなれ」ではなく、「優しい人になりなさい。応援してもらえる人になりなさい」と説いた。まだ恩返しの途中だった。(山口貴由)

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