春は別れの季節という。しかし近ごろ、旅立つひとを駅で見送った経験はとんとない。〈日本人は別れなくなった。また、別れる人を送らなくなった〉とはジャーナリスト徳岡孝夫さんの指摘である。駅のプラットホームで別れを惜しむ光景はほとんど見かけなくなった◆列車の窓が開かなくなり、窓越しに気持ちを伝え合う姿はとうの昔になくなった。何より携帯電話が普及し、さっき別れた人とすぐにメールのやりとりができる。〈駅まで出向いて、泣いたり手を握ったりするのはアホらしい〉。そんな時代だと徳岡さんは書いている◆この春、また一つ駅から消えたものがある。JR九州が無料配布してきた「ポケット時刻表」。コロナ禍の業績悪化で経費を節減するという。スマホで検索すれば乗り換えまで教えてくれるいま、紙の時刻表に出番はなくなった◆鉄道の発展は近代日本の歩みでもある。江戸時代までのんびりしていた日本人は、鉄道網の拡大で時計を気にする勤勉な生活に変わった。戦後、高度成長で企業の出張が盛んになると、列車の増発と移動時間の短縮が進み、時刻表は手放せなくなった◆時代はなおも速さと効率を追い続ける。別れの情感も、旅程を思案するひとときも置き去りにして、列車は黙々と先を急ぐ。「おーい」と手を振っても、もう応えてくれそうにない。(桑)

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