遠く北海道の地で、150年たってなお、「判官(はんがん)さま」と親しみを込めて呼ばれる佐賀人がいる。明治新政府で開拓判官を務めた、佐賀の七賢人のひとり島義勇(しま・よしたけ)(1822~1874年)である。その島が、判官となる10年以上前の幕末に蝦夷えぞ地を探索した記録「入北記(にゅうほくき)」が、初めて本格的に活字化された。

 いわば、判官さまの“前日譚(ぜんじつたん)”にあたる記録だ。そこから浮かび上がってくるのは、佐賀人らしい正義感と、わずか4カ月間で開拓判官を解任された謎を読み解く鍵である。

 赴任した島は、原野だった石狩エリアを切り開き、「札幌」の都市建設に着手する。碁盤の目にように道路が走る骨格は、京都や、ふるさと佐賀をモデルに構想をまとめた。島は自ら「他日五洲第一の都(いつの日か、おそらく世界第一の大都になるだろう)」と漢詩によむほど、壮大な都市計画を打ち立てる。「北海道開拓の父」と呼ばれるゆえんである。

 だが、島の開拓判官在任は、たった4カ月でしかない。急きょ職を解かれ、東京へと呼び戻されている。

 いったい何が起きたのか。

 この背景について、従来は島に責任を負わせる見方が通説だった。解任した当の開拓長官・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が、日記に「(島が)もっぱら1人で考えを大きくして指令に従わず、独断で本府建築金穀をむなしくつかった」「島判官を別段処置するか」と記しているからだ。つまり、島が独断で札幌開拓を進め、浪費を重ねるから処分するというわけである。

 だが、活字化された入北記からは、異なる事情が浮かび上がってくる。

 それは、搾取されていたアイヌの人々への同情のまなざしであり、強い憤りである。島は、アイヌを搾取し、一部の役人や商人に特権を与える「場所請負制」を、私腹をこやす温床になっていると非難している。

 事実、開拓判官となった島は、場所請負制の廃止に手を付ける。利権撲滅を目指した島が、政治的な動きに巻き込まれ、呼び戻されたと考えるのが自然だろう。というのも、島の転任先は格上の「大学少監」であり、左遷どころか、栄転で迎えられているからである。

 「島義勇入北記」を翻刻した佐賀城本丸歴史館の学芸員藤井祐介氏も「場所請負制度の撤廃が原因だったとする説が入北記の記述からも裏付けられる」と指摘する。

 気になるのは、全4冊で構成される「入北記」の1巻目「雲」編が、原本はもちろん、写本もまったく残されていない点だ。この雲編は、後に巨大都市・札幌を建設することになる石狩エリア付近を歩いた記録に当たり、この部分が失われているのは、いかにも惜しい。

 どこへ消えてしまったのだろうか。そこに、何が書かれていたのか。

 今回の活字化は、幕末・維新期の埋もれている古文書を活字化する「佐賀城本丸クラシックス」シリーズの発刊によって実現した。次の世代へ引き継ぐべき貴重な資料を掘り起こそうとする試みであり、これを機に、入北記「雲」編が、どこからか発見されることを期待したい。(古賀史生)

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