子ども時分、トイレに行くのは勇気がいった。むかしの家で便所は離れ。汚いし臭いし、暗がりに大きなクモなんかが潜んでいた。足を踏み外しそうになって何度も冷や汗…。あ、食事中の方、ごめんなさい◆そんな怖い体験が実は、人間の感性や感覚をはぐくむという。解剖学者の養老孟司さんに言わせると、現代は「水洗便所症候群」。人が自然のものとして存在する以上避けられない、臭いもの汚いものを全部流して見えなくしてしまった。だから生も死も実感が持てなくなっている、と◆そのせいかどうか、近ごろは使い捨てのマスクまでトイレに流す人がいるらしい。ティッシュ類と一緒くたに下水道に詰まり、ポンプが止まるトラブルも起きている。便利さは厄介さと背中合わせである◆不織布マスクは原料にポリエステルなどが使われ、簡単には分解されない。コロナ禍で昨年、捨てられて海へ流れ込んだマスクは世界で15億6千万枚に上るとの推計もある。耳ひもが絡まった野鳥が見つかるなど、環境汚染が進んでいる◆「刻石流水」という言葉を思い返す。受けた恩は石に刻むように忘れず、かけた情けは水に流す。ところが人は、してあげたことだけ憶(おぼ)えていて、してもらったことは都合よく忘れてしまう。流してばかりだと大事なものを見失う。たまに「おつり」がくることも。(桑)

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