風の穏やかな日、水鏡のように凪(な)いだ筑後川に幾何学模様を映す天建寺橋=三養基郡みやき町

筑後川に幾何学模様を映す天建寺橋=三養基郡みやき町(小型無人機ドローンで撮影)

色鮮やかな花が供えられている六地蔵=三養基郡みやき町土井外地区

 九州一の大河である筑後川をまたいで三養基郡みやき町と福岡県久留米市を結ぶ天建寺橋(てんけんじばし)。2本の主塔から張られた80本のケーブルが橋桁を支える斜張橋の姿は、同川に架かる橋の中でもひときわ美しく、地元のシンボル的な存在だ。だが、その誕生には地域の人たちが忘れられない悲しい歴史が秘められている。

 この橋を語る上で、1950年に発生した「天建寺渡し船転覆事故」ははずせない。当時はまだ橋がなく、河川改修の影響で他地区と筑後川で隔てられた土井外地区は“陸の孤島”となっていた。橋は上流方向に行っても下流方向に行っても5キロ以上離れており、住民は日常の足として渡し船を使うしかなかった。

 みぞれ交じりの冷たい雨が降る2月13日の朝、事故は起こった。通学途中の小中学生ら43人を乗せた渡し船は、岸まであと20メートルという場所で突風にあおられて転覆。冷たい川に投げ出された子どもたちは自力で岸にたどり着いたり、上級生や近くにいた大人に救助されたが、児童6人が力尽き、帰らぬ人となった。

 事故以前も架橋の話はあったが、この悲劇を二度と繰り返してはいけないと、建設に向けて一気に動き始めた。地元郷土史会が編さんした「ふるさと三根」15号によると、当時の南茂安村の江頭貢村長が国や県と積極的に交渉。苦労して用地買収などを進め、事故から4年半後の54年10月に、初代天建寺橋の落成式が開かれた。

 初代の橋は全長425メートル、幅員4・2メートル。完成によって安全な通学路が確保されたのはもちろん、佐賀県と福岡県の往来も増え、地域活性化に寄与した。土井外地区に子どものころから住み、転覆事故で姉を亡くした小栁隆逑(たかのぶ)さん(78)は「大人たちがとても喜んでいたのを覚えている」と当時を振り返る。

 初代の橋は40年間以上にわたって使用されたが、幅員が狭く、大型車が通ると離合できないこともあり、99年に現在の橋に架け替えられた。

 2代目の橋は全長426メートル、幅員14・6~17・6メートルで、主塔の高さは73・6メートル。片側1車線の車道と両側に幅2・5メートルの歩道がある立派な橋へと生まれ変わった。旧橋に引き続き、両県を結ぶ幹線道路として1日平均約8500台の通行量があるほか、毎年5月には両県住民による大綱引き大会が開かれ、両県の交流にも一役買っている。

 筑後川の土手から眺める橋は、主塔の間に夕日が沈むスポットとしてみやき町の観光名所にもなっている。近くに住む中村宗子さん(73)は「私たちにとってはただの橋ではなく特別なもの。生きたくても生きられなかった子どもたちのことを語り継いでいきたい」とつぶやいた。(文・瀬戸健太郎、写真・志垣直哉=佐賀新聞社)

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