大規模な博覧会が開かれるなど「城ブーム」が続く中、佐賀市の佐賀城本丸御殿の全貌が見えてきた。最新の発掘調査から、明治維新の雄藩「薩長土肥」の一角を占めた佐賀藩を率いた名君、鍋島直正(閑叟)の居城、佐賀城本丸御殿に込められた改革精神と合理主義が浮き彫りになった。

 明治維新150年を契機に2017~18年度に行った発掘調査の成果が、佐賀城本丸歴史館で3月7日まで開催中の特別展「よみがえれ! 佐賀城本丸御殿」で公開されている。

 本丸御殿は火災のため焼失したが、1838(天保9)年、鍋島直正の手によって再建された。今回の発掘調査でも、建物の礎石や火災で焼けた多数の瓦などが見つかっている。

 最大のポイントは、藩主の生活空間や公式行事を担うための本丸御殿のはずが、「外」と呼ばれる藩政を運営する実務の中枢部門まで一体化させていたという点だ。

 城ブームの立役者の一人で、城郭考古学の千田嘉博(せんだ・よしひろ)奈良大教授は「全国でも行政機能をつかさどる『外』部分を御殿に組み込んだ例はないだろう。世界情勢の激動の中で、従来のやり方では駄目だという、鍋島直正の強い改革精神が見事にあらわれている」と指摘する。「外」の機能を取り込むことで、どんな事態が起きても迅速に対応できる体制づくりを目指したわけだ。

 その合理主義は、出土した遺物からも見て取れる。例えば、将軍家への献上品として知られる鍋島焼が多数出土したが、ここで見つかったのはいずれも傷があるB級品だ。献上には値しない品を、リサイクルしていたのだろう。藩士たちが日常使った器は装飾さえ省き、「碁役」「御側使」など役職名だけという質素さである。

 昨年、歴史的建造物の復元をめぐって、大きな動きがあった。文化庁が復元の条件緩和に踏み切り、これまでの「保存」重視から、地域活性化につながるような「活用」へとかじを切ったのだ。

 この方針転換により、佐賀城の場合、これまでは難しかった「天守」の再現さえ、夢ではなくなったのではないだろうか。

 留意しておきたいのは、城の歴史を考える上で、佐賀が特別な場所である、という視点である。千田教授は、豊臣秀吉が手掛けた肥前名護屋城(唐津市鎮西町)を挙げて「江戸期の城へとつながる最も初期の姿であり、そこから最終的に行き着いた形を佐賀城が示している」と評価する。日本の城の変遷が、佐賀に凝縮されているという見方だ。

 加えて、弥生時代の吉野ケ里遺跡についても千田教授は、防御のための出入り口の構造「外枡形(そとますがた)」に着目し、「中国からの影響もあって極めて先進的だ」と指摘する。この構造は日本では吉野ケ里の後、いったん忘れ去られ、再び登場するのは戦国時代に入った1570年代だ。

 高まる城ブームと、国の文化財「活用」方針への転換を、佐賀県でも地域活性化への追い風と捉えたい。直正の合理主義に貫かれた佐賀城本丸御殿を起点に、秀吉の肥前名護屋城、そして吉野ケ里までを結びつけて、全県的な視点から城の歴史をたどる活用策を考えられないだろうか。(古賀史生)

このエントリーをはてなブックマークに追加