近松寺の拈華庵

 臨済宗南禅寺派である近松寺の創建は、南禅寺の創建から間もない1302年。鎌倉時代から室町時代にかけては建築、枯山水、茶道、水墨画や文学など武家に愛された禅宗文化が花開いた時代でした。中世の近松寺の詳細は不明ですが、上松浦党による交易の際も留学経験のある僧侶の存在は重きを置かれたのか、波多三河守親(ちかし)により聖福寺の湖心禅師を開祖として迎え、三の丸付近に七堂伽藍(がらん)の堂宇が再建されました。しかし、1574年に兵火で焼失。唐津藩主・寺沢志摩守広高が耳峰(じほう)禅師を通辞にと招いた際に西寺町に再興されました。

 近松寺は唐津藩主の菩提寺であり、豊臣秀吉の伽衆(とぎしゅう)であった曽呂利(そろり)新左衛門の作庭と伝えられる舞鶴園や織部灯籠(おりべどうろう)など見るべきものは多々ありますが、今回は拈華庵(ねんげあん)と名づけられた茶室へ。もとは山門から入って右手に茶室がありましたが、現在ある茶室は昭和5年築。宗徧流の人々によって再興されたものです。最後の唐津藩主・小笠原公のもと代々茶頭(さどう)を務めたのは山田宗徧を祖とする宗徧流。唐津藩の茶道の主流は宗徧流だったのです。

 拈華庵の床の間の前端にある床框(とこがまち)は塗(ぬり)框です。これは茶室としては異例で、豊臣秀吉の拝領の品である蓮華(れんげ)釜があるからとか。山深い草庵ではなく唐津湾に見立てた枯山水のほとりに建てたというのも面白い。海もほど近く車の往来がやめば松風に乗って潮騒の音が聴こえます。華をさしだされれば微笑を浮かべる仏陀と弟子の風のようなやりとりの向こうに、無の境地がゆらめいているようです。

文・菊池典子

絵・菊池郁夫

(NPOからつヘリテージ機構)

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