宗統家らがこもった勝尾城跡遠景。本城だけでなく、麓の空堀や出城も含め、谷全体を包むように大規模な防衛線が築かれていた=鳥栖市

 肥前国から筑後国鰺坂(あじさか)城(小郡市)へ移った武将の宗統家は、勝尾(かつのお)城(鳥栖市)を本拠地に勢力を誇っていた筑紫氏に従います。

 天正14(1586)年、薩摩の島津氏は北部九州への出兵において筑紫氏を攻めることを決め、同年7月には高良山(こうらさん)(久留米市)に大軍が集結しました。

 統家は各個撃破を避けるため鰺坂城を放棄し勝尾城へこもりましたが、その時の様子が江戸時代に基養父(きやぶ)地方の出来事を記した『基養父御領中略記』に見え、島津の大軍に追われる中、強弓で知られた白津六郎という家来が、川を隔てて6、7騎の敵を射落とす間に統家は無事に勝尾城へ入ったとあります。

 この合戦では宗氏だけでなく、八丁島城(久留米市宮ノ陣)の岩橋氏や村田八幡宮の神官なども勝尾城へ共にこもった記録があり、周辺地域を含めた大規模な合戦だった様子がうかがえます。

 勝尾城では激戦が繰り広げられましたが、7月10日に筑紫広門は降伏し終結します。しかし、島津氏の撤兵後に広門は自力で勝尾城を奪還し、それらの功を認められ豊臣秀吉より上妻郡(八女市)を与えられ移ることとなります。統家も筑紫氏に従い八女へと移り、さらに肥後国加藤清正に召し抱えられた際にも同行している記録が残っています。

 基養父を中心に筑後・肥後と活躍した宗氏ですが、江戸時代には久留米藩有馬氏に仕え、現在へと歴史を受け継いでいます。(地域リポーター・田中健一=鳥栖市儀徳町)

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