なかなか収束の気配が見えない新型コロナウイルス。「自粛疲れ」と今後への不安からか、人々の心が乱れ、やり場のない思いを他者にぶつける傾向がさらに強まった気がする。佐賀県内でも学校に感染が広がり、誹謗(ひぼう)中傷が見られた。互いを責め、傷つけ合うことからプラス要素は生まれない。不安な状況はみな同じ。もう一度、「人権」について思いを巡らせたい。

 新型コロナ対策特別措置法と感染症法の改正案が今国会で審議される。気になるのはやはり、「罰則規定」。入院拒否者への刑事罰に加え、営業時間短縮の命令を拒んだ事業者に過料を科すとしている。

 有事の際、一定の権限をトップに与えるのは仕方のないことかもしれないが、罰則など強制力が強すぎるのはどうかと思う。「人権」という根本的な問題をはらむ。

 人権は一般的に「人が自分らしく生きるために必要な条件」と解釈される。思想信条の自由、行動の自由などさまざまな自由が保障されることで、人は「自分らしい生き方」を模索できる。日本の憲法も基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」と規定する。

 もちろん、自由には「他者の人権を侵さない」という制約があり、権利と義務はセットでもある。全ての人が「自由」を主張すれば、当然、摩擦が起きるだろう。「個人の自由」と「社会の和」は両立が難しい点も多い。

 ただ「社会の和」という概念も漠然としていて、仮に「社会の大多数の人にとって心地よい状態」ととらえるならば、大多数の人と違う行動をとったり、考えたりする人は「少数者」となり、排除されてしまう。だから、少数者は自分が排除されることを恐れ、自分の思いを殺して多数派に合わせる。それが、生きづらさにつながっているのではないだろうか。

 国内で新型コロナの感染者が初めて確認されてから1年が過ぎた。この間、これまで当たり前と思っていた日常が意外にもろいことを痛感させられた。コロナに立ち向かうには、協力や団結、調和が求められ、一定の制約は甘受しなければならない。ただ、だからといって、協力しない人や和を乱す人を必要以上に責める権利はないだろう。コロナ対策特措法の改正で罰則規定を設けると、理由にかかわらず、「ルール違反者を責めていい」というイメージを子どもたちに与えかねず、いじめや差別を生む恐れさえある。

 最近の事例では、マスク着用を巡るトラブルについて考えさせられた。マスクをしないのはどうかと思うが、「鼻を覆う」「布製より不織布を」といった意見が出て、仮に正しいことであったとしても、社会の大多数になるようでは怖い。コロナ禍で「同調圧力」という言葉が使われ始めたが、突き詰めて考えると、それは多様性を認めない社会といえるのではないだろうか。

 法改正で義務が課せられるのは仕方ないかもしれないが、そこに人権侵害の側面はないのか、国会でも審議を尽くしてほしい。

 「思う」ことは自由だが、それを言葉や行動にするのは慎重であった方がいい。ちょっとした心がけで感情はコントロールできる。厳しい時だからこそ、多様性を認め、互いを高め合う社会を目指したい。(中島義彦)

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