中原遺跡で大量に発掘された鉄塊(手前の台の右)と、加工時に火花として散る不純物「鉄滓」(同左)=唐津市の末盧館

唐津平野で見つかった肥後系の土器。西九州航路から運び込まれたとみられる

中原遺跡で発掘され、弥生時代後期に木簡を削る道具として使っていた小刀

中原遺跡で発掘され、弥生時代後期に使われていたとされる鉄剣=唐津市の末盧館

 唐津市菜畑の末盧館で企画展「末盧より『西』を望む-西九州航路の盛衰と鉄をめぐる動静」が開かれている。弥生時代に末盧国と呼ばれた唐津地方と現在の長崎県北西部を結ぶ西九州航路は、鉄や貝を求めた人々が通ったとされ、航路の歴史と中原遺跡(唐津市原)で盛んだった鉄の生産をひもとく。2月7日まで。

 中原遺跡で見つかった鉄塊や鉄製道具のほか、航路を通って唐津に持ち込まれたとされる腕輪や土器など約200点を展示している。

 唐津平野と長崎県北西部の関係は弥生時代前期にさかのぼる。沖縄など南海産貝の腕輪(貝輪)が航路を通って運び込まれており、特にイモガイ製の貝輪を模した青銅製の腕輪は両地域のみで出土しており、そのつながりを象徴する。

 弥生時代中期になると有明海を経由した航路が加わり、メインルートだった西九州航路は一時衰退する。一方で、同後期には中原遺跡で鉄器生産が始まり、島原半島や熊本の人々が鉄を手に入れようと航路を通り、再び活性化したと推測されている。

 中原遺跡からは鉄を削る際に火花として散る不純物の塊「鉄滓(てっさい)」や大量の鉄が出土し、他地域にも供給していたとされる。木簡を削る小刀として使い、鉄器の裁断によって生じた鉄片は弓矢の矢尻として再利用していたという。熊本の土器も見つかり、道具としての性能に優れる鉄を求めて交易していたことが分かる。

 弥生時代の末盧国については中国の書「魏志倭人伝」に「草木で生い茂り、山と海に囲まれている」と記されているが、学芸員の濱口尚美さん(45)は「『魏志倭人伝』には書かれていない、鉄のムラや交流の様子を知ってほしい」と話す。(横田千晶)

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