核兵器の開発や製造、保有、使用、使用の威嚇などを包括的に禁じる核兵器禁止条約が発効した。核兵器を「絶対悪」とみなす人間道徳の高みから、抑止力を含む核の存在意義自体を全面否定する国際法は初めてだ。

 その原点は、人類で唯一、原爆攻撃を受けた広島、長崎の被爆体験だ。

 表面温度数千度の火球が突如目の前に現れ、爆心地周辺にいた者は巨大な爆風に飛ばされ、焼き尽くされる。わが身に何が起きているか分からないまま、無数の人が瞬時に人生を奪われた。

 きのこ雲が立ち上る中、市内の随所で火災が発生し、倒壊した建物の下敷きになり焼死した人も多い。目の前で苦しむ肉親や友人を残したまま、その場を立ち去らなくてはならなかった被爆者も少なくなかった。

 「どうして自分だけが…」。何とか生き延びた無実の人が今もトラウマに苦しんでいる。

 条約発効を機に改めて、個々の被爆者を襲った75年前の非人道的な惨劇を胸に刻みたい。そしてこの条約に記された「被爆者の受け入れ難い苦しみ」に思いをはせたい。

 「私の兄は爆心地から900メートルの木造家屋の中で胎内被爆した原爆小頭児です。まもなく75歳になりますが、今も簡単な計算すらできません」

 母親のおなかの中で放射線を浴び、生まれながら障害を負った原爆小頭症被爆者を支援する「きのこ会」の会長、長岡義夫さんは条約発効に合わせて声明文を発表した。

 「知的障害のある小頭症被爆者たちは、自らの口で『核兵器の廃絶』とは言いません。しかし、その存在そのもので、核兵器の非人道性を訴えています」。長岡さんの心の叫びに、この条約の意義を認めない核保有国、日本を含む「核の傘」の下にいる同盟国の指導者は耳を澄ましてほしい。

 核兵器禁止条約は、非核三原則を国是とし、被爆者がつむぎ続けた「反原爆」の思想に共感する日本の民意を体現した国際規範でもある。

 米エール大の研究者らが2019年夏に日本の市民を対象に行った世論調査が興味深い。単に同条約への賛否を問うのではなく、この条約が核抑止力を否定しており、核廃絶の検証手段にも不備がある点などを説明した上で意見を尋ねても、7割以上の人が条約を支持したという。

 米国の核抑止力を重視して条約交渉に参加せず、背を向ける日本政府の姿勢とは裏腹に、被爆国市民の大多数が「人類は核と共存することはできない」(被爆者で倫理学者の故森滝市郎氏)との理念を共有している実情をうかがわせる。

 条約発効の原動力となったのは被爆者であり、支援者であり「核使用による壊滅的な人道上の結末」を早くから警告してきた医師らでもあった。

 核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)創設に加わったオーストラリアの医師で、35年前にノーベル平和賞を受賞した核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の共同代表ティルマン・ラフ氏は語る。「核兵器が使われたら(被害者救済の)実効性ある人道的対応は不可能だ。核を廃絶するか、核がわれわれを消滅させるか、いずれかだ」

 米ロ関係の険悪化、北朝鮮核問題の深刻化、イラン核合意崩壊で核リスクは近年急速に高まった。被爆国を率いる菅義偉首相には明確な態度変更を求めたい。(共同通信・太田昌克)

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