子ども新聞では年始の目標などで、「続けることが難しくなるのは極端な目標の設定が要因のひとつ」と紹介しました。

 継続は力なりと言い、続けることの大切さはみんな分かっています。続けるには極端な目標は禁物ということも経験から知っているのですが、ダイエットでもランニングでも張り切って高いハードル、極端な目標を掲げたために続かなかったという経験は繰り返すものです。

 ただ、ここで言いたいのは継続の大切さではなく、私たちは極端さを好み、それによって過ちを犯すということを考えなくてはならないという点です。

 何かを目指す時、何かを考える時、私たちは極端な物の見方に偏ります。それは、極端な方がシンプルで分かりやすく、取り組みとして行いやすいからです。また、一人でも集団でも、極端な取り組みの方が簡単に充足感や高揚感を得ることができるため、同調圧、一体感と相まって極端さはエスカレートしがちです。

 極端さそのものが悪いわけではありませんが、私たちが極端さに飲み込まれ振りかざす時、多くの場合は本来の目的と違う方向へ向かいます。

 コロナ禍における「マスク警察」も極端さの例でしょう。マスクの正しい着用は感染予防に効果がありますが、マスクをしてさえいれば良いという極論に陥りがちなのです。マスクも素材や着用法、用途や役割に応じた適切な使い方があり、どうしても着用できない事情がある人も存在します。目指すところはマスクをすることではなく、感染拡大を食い止めることであり、そのためには手洗いや人との接触機会の減などをバランス良く実施し、持続できる方策を取ることが大切であるはずですが、取り組みに参加しているという名乗りと安心感のために、マスクの有無だけを取りあげて個々の事情を無視して断じ、責めるということが起こります。

 お釈迦さまは極端さを戒め、適当、適切なバランスを説き、中道としてこれが最も難しいとされました。適度を見出すには総合的に物事を見て、本質を見失わないようにせねばなりません。極端さには簡単さが伴いますが、それでは本質的な解決には至らないということを心にとめておきたいものです。(浄土真宗本願寺派僧侶・日本思春期学会理事 古川潤哉)

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