昭和の落語家に、人気はもうひとつだが、酒好きでは名人志ん生と並ぶ、といわれた三代目柳亭市馬がいる。中国で終戦を迎え、ソ連兵から武装解除を迫られた。隠し持った武器弾薬を差し出す日本人の中で、市馬のふところから出てきたのは、どさくさで持ち出した酒瓶ばかり◆やっと帰国したものの、胸を患っていて郊外の療養所に入った。仲間が見舞いに訪れると、「今度来るときは東京地図を持ってきてくれ」。東京で酒を飲めば病気なんか治る、とベッドを抜け出し、盛り場へ向かった(矢野誠一『昭和の藝人 千夜一夜』)◆いまどき、こんな芸人がいたら何と言われるか。新型コロナ対策で政府は入院の勧告、自宅や宿泊施設での療養の要請に応じない感染者に刑事罰を科す方針という◆誰もが我慢を強いられているとき、ルールを守らないやつは許せない。でもそれって「自粛警察」の論理。安心して休むための社会環境や支援策は十分か、感染リスクに対する意識が徹底しないのはなぜか。世の中をぎすぎすさせる罰則より、火急の課題はありそうなのに◆落語を地で行くような市馬師匠は少年時代、庭の大木から落ちて大けがをした。茂った枝を払おうとして、うっかり自分の乗った枝まで切ってしまったとか。なたを振るう場所を間違えてはならないのは、政治も一緒である。(桑)

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