気がつくと、からだが牛になっていた。顔だけが人間のままで、見果てぬ平原にぼんやり立っている…。内田百閒にそんな不思議な小説がある。「件(くだん)」と呼ばれるその生きものは寿命がわずか3日。それまでに未来の凶福を予言するという◆「あそこだ、あそこ」。何千、何万と大勢の人が予言を聞こうと押しかけてくる。しかし、突然へんな生きものになった主人公に、予言などできるはずもない。水をひと口飲めば、「いよいよこれからだ」と人びとは盛り上がり、ただ歩き回れば、「よほど重大な予言をするに違いない」と勝手なことを言っている◆3日目を迎えるころ、予言を待ち続ける人びとに不安と恐怖の影が濃くなる。しまいには「予言は聞かないほうがいい。何も言わないうちに、早く殺してしまえ」と声が上がる…◆「件」という字はたしかに、人と牛を組み合わせた形をしている。もとは裁判用語で、「分かつ、物事を区別する」という意味もある。コロナ禍で人と人とが分け隔てられているいま、不安と恐怖が未来を見つめるまなざしを閉ざしてはいないか。丑年の初めに、そんなことを思った◆短い正月休みも終わり、きょうは仕事始め。ここ数日、外に出ることもなく、食べて飲んでは寝てばかりいたおかげで、いつの間にか牛になっていないか、ちょっと心配だけれど。(桑)

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