これほど強く、祈りを込めて迎えた新年があっただろうか。

 〈時計の針が前にすすむと「時間」になります/後にすすむと「思い出」になります〉。寺山修司に「思い出の歴史」という詩がある。「時間」だけは確かに進んでいるというのに、振り返る「思い出」はどれも空疎で彩りがない。

 依然、感染拡大が続く新型コロナウイルスに、私たちはさまざまな「自由」が奪われ、暮らしは翻弄(ほんろう)され続けている。「終息」に向けた時計の針はいったい進んでいるのか、不安のまま年は明けた。

 いま私たちの社会が直面している困難のひとつは、現時点で分かっているウイルスの毒性に比べ、圧倒的に恐怖や不安ばかりが不釣り合いに増幅していることであろう。多額の税金を投じた景気刺激策にもかかわらず、経済の先行きが見通せないのは、感染してはならない、感染させてはならないといった警戒心が、社会全体を委縮させているからである。

 一方で海外の一部のリーダーに顕著なように、過剰に不安がる人びとをわらい、ウイルスの毒性の実態から「ただの風邪」と軽視する価値観も根強く存在する。これが感染を広げる一因ともなり、さらに不安を生む悪循環にある。

 私たちはいつまで、「命か経済か」という不毛な二元論にとらわれ続けるのだろうか。

 コロナ禍という世界規模の課題を解決するには、安易に答えを求めるのではなく、長期的思考が欠かせない。その手がかりとして注目されるのが、精神科医で作家の帚木蓬生さんが紹介している「ネガティブ・ケイパビリティ」である。「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える力」のことである。

 これまで現代社会で重視されてきたのは問題解決や物事を処理する力、ポジティブ・ケイパビリティだが、それはマニュアル化や単純化された思考に陥る危うさもひそんでいる。

 逆の概念であるネガティブ・ケイパビリティは、わからないものや不確実なものに生半可な意味付けや知識で解を見いださない。心もとない宙ぶらりんな状態に耐えた先に、必ず深い発展的な理解が待ち受けていると信じる。そんな持続力がいま必要ではないか。

 ただ、光明は見えていないわけではない。

 コロナ禍が浮き彫りにしたのは、これまで私たちが豊かさだと信じてきた都市の暮らし、とりわけ東京一極集中の過密な生活スタイルや経済システムがいかにもろく、リスクと隣り合わせだったか、ということにほかならない。

 全国町村会は昨年11月、コロナ後の社会を見据えて日本再生を目指す提言をまとめた。その中で力を込めて訴えているのは、東京と地方、都市と農山漁村が、人口や経済などの限られたパイを奪い合う「競う社会」ではなく、誰もが安心や喜び、幸せを実感できる「価値創生社会」への転換である。

 それは、どんな地域、どんな時代に生まれても、たとえどんなに厳しい状況でも、老若男女、障害のあるなしにかかわらず、誰もが希望をもって輝ける社会にほかならない。コロナの時代を生きる私たちは、国や地域のありよう、家族や自分の生き方について、抜本的に見つめなおす岐路に立っている。(論説委員長 桑原 昇)

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