千栗(ちりく)城(みやき町)を中心として活動していた宗氏ですが、天正年間(1573~1592)の前半頃に鑑盛から子の統家へと家督が譲られました。統家は新五郎・次郎左衛門尉などを名乗っており、仕えていた豊後国の大友義統へ太刀や織物を贈った書状が残っています。
新たに当主となった統家にとって最大の課題は、勢力拡大を図る佐賀の龍造寺隆信による攻撃でした。宗氏の本拠地である千栗城は、すぐそばに肥前国一宮である千栗八幡宮が鎮座し、またかつては筑後川が大きく湾曲して眼前を流れ、筑後国への渡河点や水上交通の要所としても重要な場所であったためです。