刺し身が出されると「煮てくれ」といい、大根おろしや果物もゆでて食べた。作家の泉鏡花は「生もの」を決して口にしなかった。文壇仲間と鍋を囲んだとき、健啖家(けんたんか)の谷崎潤一郎がまだ煮え切らないうちから肉を食べてしまうので、火が通るのを待っている鏡花はありつけない。「君、これは僕が食べるんだから、そのつもりで」と鍋に仕切りを置いたという◆鏡花が活躍した明治から大正にかけて、チフスやコレラ、スペイン風邪など感染症がくり返し流行した。若いころ、赤痢で長く療養した苦い経験を持つこの作家が食事を警戒するのも無理はなかった。とはいえ、ここまで神経質だと、せっかくの味わいが楽しめたかどうか◆実りの秋、きょう11月24日は「いい日本食」と読ませて「和食の日」という。食にはその土地の自然や歴史が息づき、年中行事や儀礼とも結びついている。味とともに家族、風景、音、においが記憶され、食文化として受け継がれていく◆近ごろは、そんな自分の「よりどころ」より、グルメサイトに誰かが書き込んだ「評価」をあてにする時代である。いつのまにか人の五感は退化しているのかもしれない◆「静かなマスク会食」や小人数で小一時間、小皿で食べる…。生ものを怖がった文豪のことを笑えない食卓に五感がくすぐられるか、ちょっと自信がない。(桑)

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