小川島鯨見張所

 呼子からほど近い小川島の鯨見張所は、別名「山見小屋」です。現在残るのは大正初期に造られた洋風様式を取り入れた和小屋で瓦葺寄棟造(かわらぶきよせむねづくり)。『肥前国唐津領産物図考』では昔は入母屋(いりもや)の草葺(くさぶき)屋根でした。文久3(1863)年に建立された鯨の供養塔とともに小川島を基地として栄えた捕鯨文化を今に伝える県指定重要文化財です。鯨見張所は眺めの良い丘に建っていますが、上吊(つ)りの回転窓は横に細長い。鯨の群れが見える水平線あたりの情報以外は目に入らない造りです。

 玄海の捕鯨の開始時期は文禄3(1594)年ごろ、寺沢志摩守が紀州・熊野灘から漁夫を雇い、突取法による捕鯨を始めたのが始まりだとか。

 後の首相・高橋是清の自伝には唐津で英学校・耐恒(たいこう)寮の教師時代、明治4(1871)年12月末から正月にかけて小川島で鯨取りの見物をした様子が描かれています。当時は藩営で見張所には裃(かみしも)姿の少参事が座り、番人が始終、望遠鏡で見ています。発見したら2本の苫(とま)の旗を揚げて鯨の位置を知らせ、すぐに鯨船が出動しました。

 「その勇ましいことは、昔の舟戦(いくさ)もこんなものかと思われるくらい、八人乗の舟が数隻、艪舵(ろかじ)をそろえて、掛声高く漕こいでいく」

 まずは一番の若手が山を駆けおります。油の多い背美(せみ)鯨を見つけたら他の鯨を取っている最中でも放っていくほど喜ばれ、柴を焚(た)き狼煙(のろし)を上げて知らせました。

 中尾家の関わった最終期の古式捕鯨には勇壮さとともにどこか趣が感じられるのです。

(NPOからつヘリテージ機構 文・菊池典子 絵・菊池郁夫)

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