戦時中の赤痢が発生した状況について話す西村謙一さん=佐賀市

 規制線が張られた民家、息をのんで見守る人たち…。佐賀市の西村謙一さん(88)は、新型コロナウイルスの感染が広がる今年の夏を憂いながら、太平洋戦争時に見た情景を思い起こしていた。

「避病院」の恐怖

 1944(昭和19)年の夏。西村さんは国民学校初等科(小学校)の6年生で、現在の熊本県八代市に住んでいた。「赤痢が出たぞ」。そこは同級生宅だった。家の外側に荒縄がぐるりと巻かれ、その前で警察官が立ち番をしていた。当時は感染症への対応など衛生行政の一部を警察が担っていて、まるで事件現場のような物々しさだった。

 赤痢は感染症の一つで、発熱や下痢、血便などの症状が出る。「子どもが罹(かか)ると重症になりやすく、小学生でも恐ろしい病気だと知っていた。当時の新聞で『赤痢が発生』という記事もよく目にしていた」と西村さん。手洗いによる予防が常に呼び掛けられ、親からは「おなかを壊さないように」と言われてきた。

 人だかりの中で同級生宅を眺めていると、見たことのない車が玄関前に止まった。担架に担がれた住人が車内に収容され、車は立ち去った。「避病院に運ばれた」。そう耳にした西村さんは言葉を失った。当時の伝染病院(感染症の専門病院)は避病院とも呼ばれていて「そこから生きて戻れないと聞かされていた」。

 後日、同級生とその友人の2人が赤痢で死亡したことを知った。感染者が強制的に隔離されるような状況も不安を増幅させた。「身近に感染者が出たことで、いつか自分もそうなるのではと思って、恐怖に駆られた」と振り返る。

「見えない」不安

 38(昭和13)年の厚生省の新設など、戦時体制下には戦闘力と労働力を担う「人的資源」になる国民の健康管理が重視され、感染症対策の強化もうたった。しかし、戦争末期には食糧不足による栄養失調や衛生環境の悪化によって、佐賀県内でも赤痢や発疹はっしんチフスなど感染症に罹る人が増えたことが県医学史に記されている。

 終戦直前、45(昭和20)年8月2日、佐賀新聞は「空爆と伝染病(感染症)に諸注意」「蔓延まんえんしつつある伝染病との戦ひを如何いかにすべきか」と報じた。記事では、空襲で水道や井戸が破壊されて飲料水に支障が生じることを想定し、感染症予防のための安全な水の確保策を説明している。銃後の暮らしの中に、感染症が横たわっていた実情が浮かび上がる。

 終戦から75年。赤痢など戦時中に流行していた感染症は、公衆衛生の向上や治療法の確立などを通じてほとんど感染が確認されなくなった。戦後、医師になった西村さんは「当時は医療体制も十分ではなく、特効薬もない。感染症に対する人々の恐怖は、今とは比べられないほど強かった」と改めて思う。

 ただ、新型コロナウイルスの感染拡大を恐れる今の日常を、当時と重ね合わせることもある。「見えないウイルスに抱く不安は、医療が進んだ今でも変わらないのではないか」。(山本礼史)

 保健所 戦前の保健所法の制定に伴って1938(昭和13)年以降、唐津市を皮切りに佐賀県内各地に公衆衛生の保健指導機関として設置された。体制が不十分で終戦の混乱もあり、想定された機能を発揮できなかった。戦後の47(昭和22)年、保健所法が全面改正され、公衆衛生全般の中心機関に位置付けられた。

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