まもなく、75年目の「終戦記念日」が巡ってくる。佐賀新聞は「ひろば」欄で、「わたしの戦争」をテーマに投稿を呼び掛けてきた。

 佐賀人たちは、あの戦争をどう生き抜いたのか。生の声を、紙面に刻んでおきたいという狙いである。

 初回(6日付)は、佐賀市の江里口勉さん(75)の「太もものへこみ」を掲載した。自らの太ももに残るへこみが、大陸から引き揚げる時に、よちよち歩きの1歳児を歩かせるためにやむなく打たれた筋肉注射が原因だったという衝撃的なエピソードだった。亡くなった両親は戦後も伏せ続けたが、父親の日記から、その事実にたどりついたという。

 戦後75年がたち、戦争体験世代の高齢化が進む。私たちの社会は今、あの戦争をどう次の世代に語り継ぐかという課題に直面している。鍵を握るのは江里口さんのように、当時つづられた日記や日誌類だろう。

 ひろば欄とは別だが、戦時中の日誌と言えば、吉野ケ里遺跡研究の草分けとして知られる七田忠志さん(1912~81年)が、旧満州時代に高句麗の首都だった輯安(集安・しゅうあん)を発掘調査した日誌も貴重である。

 きちょうめんな筆致から、日中戦争のさなか、文化財の調査・保存に取り組んだ姿が浮かび上がる。

 江里口さんの太もものへこみも、七田さんの集安日誌も、教科書には載らない小さな出来事かもしれないが、当時の状況をリアルに伝える市民の戦時史そのものである。

 今年はコロナ禍により、ステイホームを余儀なくされ、自宅で過ごす時間が大幅に増えた。身の回りを整えようと「断捨離」や「終活」という言葉が飛び交う。

 そうして不用品として処分される中には、日記や日誌類が含まれているかもしれない。戦前、戦中、そして戦後を生き抜いた人々の言葉が埋もれてはいないだろうか。

 今年は長崎の平和宣言でも、田上富久市長が初めて、被爆者の手記を引用した。原爆で妻子を失い、「あの子」などを作った作曲家・木野普見雄氏(1907~70年)の残した言葉だった。この悲惨な体験をいかに未来へ届けるかという試みに違いない。

 戦中世代に残された時間は少ない。その生の声にあらためて耳を傾けたい。

 ひろば欄の「わたしの戦争」では、東京都の溝口進さん(84)が、昭和20年8月9日の夕刻の様子をつづっている。長崎に原爆が落とされた当日。長崎からの特別列車が“荷物”として運んだ犠牲者を目撃した少年の記憶だ。

 被爆直後に長崎入りした元日赤看護婦の西久保キクノさん(94)は、その姿が1枚の写真にとらえられていた。目を閉じ、しゃがみこむ被爆者と、傷口を押さえる看護師。傷口にチンク油を塗った思い出とともに「長崎の夏は暑く、私の心にはチンク油の匂いがにじんでいます」とつづった。

 ひろば欄の「わたしの戦争」もまた、記憶の風化にあらがおうとする試みである。このコロナ禍を逆手に、家族の歴史を振り返り、足元を見つめ直してはどうだろうか。(古賀史生)

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