軍国少年だった時代の手記をまとめた冊子を開く福田任さん=嬉野市嬉野町の自宅

1943(昭和18)年15歳で働き始めたころの福田任さん(左)

 30年間勤め上げた国鉄を退職した1973(昭和48)年、職場から交付された「職員身上書」にその一文がある。

 〈国家総動員第四条ノ規定ニ基キ現職ノ儘徴用セラル〉

 日付は太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月31日。国家総動員法に基づき、職員のまま徴用するという内容だった。持ち主は嬉野市の福田任(あたる)さん(92)。「戦地に赴いたわけでもないのに、いつの間にか非常時の体制に組み込まれていた」

 総力戦体制を目指した国家総動員法は資本を戦争に集中させ、合理的に人や物資を動員していった。労働は国に報いる「奉仕活動」とされ、国民の側にも戦争の遂行を自発的に下支えしていく一面があった。

職場で唱和

 福田さんは43(昭和18)年5月、15歳で就職した。旧嬉野町にあった鉄道省営自動車(後の国鉄バス、JR九州バス)が運営する嬉野自動車区のバス事業の整備員として働き始めた。「戦争に勝つためには、軍事上の動脈である交通の破綻は許されない。職場では毎朝、みんなで歌を唱和して、心を一つにした」

 嬉野自動車区は、現在の武雄市、嬉野市、長崎県東彼杵町をつなぐバス路線を担い、旅客輸送が中心だった。終戦間際、男性は次々と召集され、九州全域から女性を20人ほど集めて運転手不足を補った。国の機関とはいえ当時は物資不足で「ガソリンは全て軍部に回し、木炭を燃料にバスを動かしていた」と証言する。

 「そもそも模範的な軍国少年だった」という福田さん。杵島郡西川登村(現武雄市)にある尋常小学校に学び始めたころ「ススメ、ススメ、ヘイタイススメ」と書かれた国語読本で勉強し、天皇の御真影と教育勅語が奉納された奉安殿の前を通るときは、腰を直角に曲げるほど最敬礼した。41(昭和16)年12月8日の太平洋戦争開戦直後には、生徒長として近くの神社に全校生徒を引き連れ、生徒でただ一人、かしわ手を打ち、勝利を祈願した。

 福田さんは小学校の高等科に在学したまま海軍を志願。学科はクリアしたが、幼い頃の胸の病気が影響して肺活量が不十分とされ、不合格になった。「時代の要請に応えられなかったのは痛恨の極みだった。せめて職場で役に立とうと思った」

平和への希求

 45(昭和20)年8月15日。職場の上司から「日本は負けた」と聞かされた。福田さんは棒立ちのまま、涙をこらえきれなかった。不思議だったのは、泣いているのが20歳前後の若者ばかりだったことだ。「年配の出征経験がある人は、どうも日本が負けると思っていたんじゃないかな」

 戦後、日本国憲法が制定され、新しい社会がつくられていく。福田さんは国鉄の労働組合に入った。3年後の48(昭和23)年ごろ、職場で不正があり、上司も部下と同等に処分されたことに驚いた。「上意下達が絶対だった戦前からの軍国主義が終わったことを目の当たりにした」

 福田さんは「軍国教育や国家総動員法によって、教室で、職場で、当時の子どもや青年たちは、その無垢(むく)さゆえに、軍国主義や全体主義に簡単に染まってしまった」と当時を振り返る。そんな時代への反省から、社会党町議として安保闘争などを経験。今でも平和への希求を続けている。(山内克也)

    ◇  ◇

 75回目の終戦の日を迎える。戦争を日常の出来事として体験した人が少なくなる中、銃後の市民の記憶をつづる。

 

 国家総動員法 1938年に制定された戦時統制法。太平洋戦争での日本の軍事上の総力戦体制を築いた基本法となった。戦争遂行のため労務、物資、物価、企業、運輸、言論など国民生活にかかる全ての分野を統制する権限を政府に与えた授権法。

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