七田忠志氏が残した手記「輯安行」

「輯安行」と名付けた手記を残した七田忠志氏(右)=1938年、旧満州で撮影

 吉野ケ里研究の草分けとして知られる在野の考古学者七田忠志氏(1912~81年)が、日中戦争のさなかに旧満州国の職員として高句麗王都の集安遺跡を調査した手記が残されている。38(昭和13)年5月から7月にかけての記録で、発掘調査の過程で現地の武装勢力から襲撃を受けた状況も克明に記されている。

 表紙に「輯安(集安)行」と記された大学ノート28枚つづりで、忠志氏の長男で佐賀城本丸歴史館長の忠昭氏(68)が所有している。

 集安は中国吉林省の都市で、北朝鮮国境の鴨緑江北岸に位置する。7世紀まで中国東北部から朝鮮半島にかけて支配した高句麗が2番目に都を置いた。高句麗最盛期の広開土王(好太王)の功績を刻んだ「好太王碑」などがあり、2004年に世界文化遺産に登録されている。

 集安調査は旧満州国が実施した。期間は5月1日から7月31日までの3カ月間で、調査対象は好太王碑をはじめ、将軍塚、太王陵、壁画古墳の四神塚など遺跡の中枢だった。

 忠志氏の手記は5月17日付から7月6日付まで。「食料運搬トラック、匪賊(ゲリラ)に襲撃され、二十名拉致され、運転手一名逃げ帰り、報告せり」「いつでも招集に応じられる如く軍装したまま(靴もはき)毛布を腹にのせて寝る」「邦人多数惨殺、又拉致さる」などと緊迫した記述が続く。

 発掘調査では「鉄製品、緑褐釉陶器等出土」などと発見が相次ぎ、中でも6月15日の記述は「一四九号墳 コンロの破片出づ!!」と強調されている。この「コンロ(かまど)」は破片を組み立て直し、京都大学に預けられている。

 忠志氏は、満州重工業開発株式会社総裁で財閥「日産コンツェルン」創始者の鮎川義介氏(1880~1967年)とも会っており、鮎川氏が「集安博物館の設計図を建てて提出せよ」と指示したと記す。

 忠志氏は国学院大在学中から吉野ケ里遺跡の研究を進め、北部九州と邪馬台国の関連も指摘していた。卒業後は実業青年学校の指導員を経て、満州国の調査に参加した。戦後は神埼高校で教員を務めながら、吉野ケ里研究を続けた。

 長男の七田館長も、30年前の「吉野ケ里フィーバー」当時の発掘調査の担当者で、親子2代の考古学者。七田館長は「父は戦争の話はほとんどしなかったが、考古学者として高句麗の都の発掘には、ぜひとも参加したかったはずだ。現地に渡る前、武装の許可を得ており、相当な覚悟だったようだ」と話している。(古賀史生)

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